〜287年の軌跡〜
ここでは、タイトルにもある「若連中」を説明します。以下の文章は豊中町史より抜粋したものです。

若連中とは?
昔から伝統的につくられた青年男子の年齢集団で、町内では若連中あるいは若い衆連中などと呼び、どの地区にもこの組織があった。今もなお、太鼓組や獅子組があるところでは、昔の名残を留めており、また御神燈にも若連中の名称をよくみかける。この集団への仲間入りやひく(退団)年齢は、ところによって相違があった。団の統率者には、最年長者があたり、最年少者は集団の使い走りにあたることが多かった。若連中をひけば、当分の間、中老といって若連中の相談相手になっていた。仲間入りの時期や方法は土地によって異なるが、正月あるいは三月などの寄り合いや、団の行事が行われる時などに紹介され、若連中に加えられた。若連中仲間入りすることは、少年から青年の社会に仲間入りすることになるので、慣習的な手順を経て行われるが、地域によっては厳格で、集団内部の統制が厳しいところがある。岡本の天神をその例にして、仲間入りからキリダシ(除名処分)までの状況を記述してみよう。
ここでは16歳になると、近隣の戸主に仲間入りのあっせん役を頼んで、旧暦3月の若い衆の寄り合いの場へ、あっせん者が同伴して臨み、仲間入りを願い出る。そこで、筆頭(統率者)が、次のようなことを言い聞かせる。

 
一、他人に対して、ときじぶんの挨拶ができなければならない。
 二、年長者の言うことには絶対に従わなければならない。
 三、一人前の男としての仕事ができるようにならなければならない。
 四、身振り素振りが大人とならなければならない。

なお、連座している一同の者からも、細かい注意が行われて、若い衆仲間の末席に加えられる。
しつけも極めて厳しく、何事にも年齢序列が厳然と介在し、寄り合いの座席をはじめ、常に正座を原則とし、長時間にわたっても上座のものが正座を崩さなければ下座のものは正座を崩すことはできなかった。年長者は常日頃から年少者の行動に関心を持ち、言い聞かせた事項にそむいたり、集団の規律を守らず秩序を乱すものがあれば、適時に寄り合いを開いて、非行を責め、事情によってはキリダシていた。キリダシ処分の解除は容易にはできないことになっていた。解除の手順は、若中老を介して筆頭に嘆願する。筆頭は寄り合いを開いて全員の意見を聞き、一同の了解があればキリダシが解かれて、復籍することになる。このときには、慣習として、解除された者はお詫びのしるしに酒一升と豆腐四、五丁をお礼の印に差し出すことにしていた。
若連中にはいくつかの年中行事があり、氏神の祭礼やゆかりある祭礼の奉納行事に参加したり、盆行事として催される盆踊りの準備や世話に当たるほか、独自の行事を完遂しつつ親睦をはかっていた。獅子舞やちょうさのあるところは、もちろん神事に奉納し参加した。岡本の谷にある天王宮の奉納相撲には、若連中が土俵作りはもちろん、そのほかの準備や世話一切を引き受けていた。また、岡本の八幡も中岡、砂子、天神では、盆踊りの準備や世話を若い衆が引き受けていた。なお、この3地区では、うら盆に米を集めて豆腐飯を作り、酒も用意し「メヨイ」と呼ばれる会食によって親睦をはかっていた。笠田の七尾の若連中は、毎年三月に家々から、米、その他のものを集め、四国巡礼に御接待を出していた。御接待は、上高野の下原の若い衆も行っており、この地区の若い衆は、特に接待地を共同耕作してそこから取れた米を接待米として、四国巡礼に施していた。
若連中に仲間入りや、ひく年齢の例
笠田の七尾:15歳で仲間入り、嫁をもらえばひく
岡本:16歳で仲間入り、25歳でひく
この事例から推測して、若連中の年齢構成はおおむね15、6歳から25,6歳の間である。
団の統率者や最年少者の呼び名の例
笠田の七尾:統率者をカシラ、15〜17歳の者を小若い衆
岡本:統率者:カシラまたは筆頭、仲間入りから2年間を走り手
明治末期になると、国の文教政策として全国的に青年会や青年団が作られたが、古い伝統と歴史をもつ若連中は容易に解消せず、依然として村に残ったので、当時の青年たちは新旧2つの若者の集団に所属すると言う過渡期の姿が大正に入っても続いていた。
このように、我が町にはどの自治会にも若連中があり、それぞれが積極的に活動していた。また、若連中に所属することが大きな誇りであったように思える。また、若連中を通して一人前の人間が育った。しかし、若連中は太鼓組のある自治会ですら、衰退し、解散している地区がほとんどである。人間形成のいがんできた昨今には必要な組織ではないだろうか。
我片山自治会の「山乃側若連中」は昭和53年8月24日の四国新聞の記載によると、当時の時点で資料に残っている確かな証拠からして260年間続く・・・とあることから、平成16年現在で287年は続く、歴史のある若者の集団である。そもそも自治会の名前は「片山」なのに何故「山乃側」なのか。これは、旧の自治会名にあたる。片山の地形をそのまま表現する地名であり、自治会の片側は丘陵地帯を形成し、妙音寺や大塚古墳等歴史的にも貴重な遺跡が残りかつての栄華の面影を残す貴重な地域である。妙音寺は、かつて「七堂伽藍」を誇り、旧寺地は今の国道11号線に「一の門」があり、そこから現在の上高野小学校付近まであったと言われ、壮大な寺院を形成していたが、豊臣秀吉の四国征伐により長宗我部氏の戦火を受け、隣接する五十鈴神社とともに焼失し、記録がそれ以降しか残っていない。四国新聞の記事にある「資料」とは、寺が再建された後より残っている古文書のことであろう。
我が自治会の若連中は現在、数えの14歳で入団仲間入りし、27歳で退団している。最近は人数が10数名と減っていて、行事に支障をきたすこともあるが、親交を深める貴重な機会をうれしく思いながら年中行事を行い、歴史ある若連中を守っているのである。
山乃側の若連中には、最大の年間行事である五十鈴、豊姫両社の秋季大祭への太鼓台奉納の他にも1年を通して様々な行事をこなしている。年中行事は下記の通り。
百手祭 3月(射子の決定を若長が行う)
入団式 6月初旬
大般 半夏ごろ
天満宮祭礼 8月の第一の土日
虫干し      〃
退団式 8月末
地蔵洗い 8月うら盆
太鼓台組み立て 祭礼の約2週間前より
秋祭り 10月の体育の日を含む その前の土日
太鼓台の収納 祭礼翌日
労破り(どう破り) 祭礼から1週間後
大般(だいはん)
大般とは、夏に病気(特に赤痢)にならないように、無病息災を祈願して行われるものである。大般若経(600巻)を入れた木箱を、担ぐための棒が付いてるので若い衆が2人で担ぎ、各家々をまわる。各家のものは、この木箱の下をくぐる。家長には、御神酒を振る舞い、御札をわたす。
天満宮祭礼
片山には会場の上に、天満宮の社がある。その祭礼が、8月の第一の土日に行われる。その準備、片付けを若い衆が引き受けて行っている。初日は坂の下から社まで役60mほどに赤い天満宮の紋が入った提灯をつける。そのあと、会場で虫干しのため、太鼓台の刺繍を出す。初日の晩には、境内でカラオケ大会や若竹会(若連中をひいた後に自分の意思で入れる自治会の団体)による、金魚すくいやヨーヨー、カキ氷、綿菓子などが無料で振舞われる。2日目は、境内の土俵で子供相撲が行われる。そのため、若い衆は土俵を耕す。そして、相撲が終わると、祭りは終わり、片付けが始まる。天神さんの祭りとして、みんが楽しみにしている行事の一つで、大人も子供も楽しめ、自治会の人が触れ合える貴重な行事である。祭礼は平成12年まで8月2、3日に行われていた。
地蔵洗い
片山にある、宝積院(妙音寺)の境内の地蔵を洗う行事である。うら盆が地蔵盆とも呼ばれている由縁がわかる。若い衆は朝の6時ごろから境内に集まり、地蔵を洗い清める。洗い終わると住職を呼び、前もって準備しておいたお供えを供え、経を上げてもらう。昔はこの後、寺を借りて料理を作り、退団式を行っていた。退団式には住職も呼んで、ありがたい説教を聴かされていたそうだが、いつのまにか退団式は別の日に行われるようになってしまった。
我が自治会の若連中はこのような行事を引き継ぎ、親睦を深めている。しかし、今後、少子化に伴って若連中の存続自体が危ぶまれている。この先代から受け継がれてきた「若連中」をなくすことは簡単にはできない。今後、これらの問題をどう解決していくかが課題である。