
| 西行法師の陸奥への旅の目的 | 後藤利雄氏の著書(みちのくの西行) より、引用する。 |
| 西行の第一次陸奥行の時期については、久安三年(1143 )30歳の時の 説をとる。
そこで、西行が陸奥の旅に出た目的について、考えてみたい。 これについて、津田さち子氏著【西行夢幻】に、西行は陸奥に旅たった旅の 目的は、詞書にもあるとおり、修行のためのものであったとあり、西行が白河の関で 詠んだ歌。 白川の関屋を月の洩る影は人の心を留むるなりけり。
芭蕉が奥の細道に旅した頃の世の中は平和であった。それにひきかえ、西行が第一次 陸奥行に出かけた頃の世の中は乱れていた。寺院の場合は特にひどく。そこに入れば、 すぐさま棍棒を持たされて僧兵にされてしまうような、世の中であった。其れが嫌だから庵に籠もって乞食生活をつづけたり、地方へ難を逃れて行く僧たちも少なからずいたであろう。しかし、其れだけの事なら、本人が内部に風流心を秘めていようが、世間では門付けをして歩く乞食坊主と見たであろう。現実を逃避してきた敗残者としか見なかったで あろう。そんな者が平泉の中尊寺に現れて、゛奥州藤原氏とおれの先祖は同じだ゛などと名乗っても門前払いされたであろう。いかさま坊主いんちき坊主と見られて叩き出されたであろう そこで私が考えた事は、第一次の西行も、何らかの役目を持って出かけたのではなかつたか と言うことである。 第二次陸奥行の西行の役目は、東大寺再建の為の勧進にあつた、第一次の場合も、何らかの公的な役目を帯びていて、修行や歌枕探訪は二義的な目的でたつたのではないかそういう目で見て、私が「出羽の西行」で出した結論は、その頃、陸奥へ流されていた興福寺の悪僧十五人の見回り役で、あつただろう、と言う事であつた。 保延五年(1139)三月と十一月に、興福寺の悪僧達は別当隆覚の排斥運動に立ち 上がりその坊を焼くなどの悪行を行ったため、康治元年(1142)に逮捕され、八月に陸奥に追放された。その流刑僧たちに西行が中尊寺で出会ったことは山家集の中に、 奈良の僧、とがの事によりて、あまた陸奥国につかはされたりし 中尊と申す処にまかりあひて、都の物語すれば涙を流す。いとあわれなり、かかること有りがたき事なり。いのちあらば物語にもせんと申して、遠国述懐と申すことをよみ侍りしに。 涙をば衣川にぞながしけるふるき都を おもひいでつつ と有ることによって明らかである。そしてそれは久安三年(1147)十月直後と推定される。流されてから既に五年の年月を閲し、望郷の念から悪僧たちも涙を流したと言うのであるが、西行もそれら 悪僧たちの立場に立って歌を詠んでいる。当然のことながら、別当隆覚が退いて、二月十四日に新別当として覚晴が就任したことも告げたことであろう。貴僧らの召還も近いと思う と言ったことまで、口にしたかも知れない。鬼の目に涙を催させるには、単に「都の物語すれば」 だけでは足りない、勘当赦免の日の近さを言い匂わせる物言いもあつたかもしれないのである。 排斥運動の対象になつた別当がやめて、新しい人と交代した場合、寺としては、流刑僧たちの召還を 考えなければ、ならなかつたであろう。何時までも他の寺に預けっぱなしでは、預かった方が迷惑するそれで彼らの行状を視察した上で、赦免を願い出るための資料作りを西行に託したものと、思われる。 悪僧十五人は公の罪人扱いになつていたわけだから、寺の意向だけで事は決められなかった。 太政官の赦しが必要であった。その赦免願いに添付する資料作りを西行に頼んだものと見られる のである。 |