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「大化の改新」(645年)



  今回は「大化の改新」の話です。まぁ小学校の6年生以上の方なら話の内容を記憶しているかどうかは別として(笑)誰しもが1度は聞いたことのある歴史的な出来事の名前かと思います。

 でもここで一つ注意しなければならないことがあります。それは「大化の改新」という出来事は単に「蘇我氏(そがし)」を滅ぼしただけの話ではなく、蘇我氏滅亡後の色々な政治の改革までを含めた全体を指す出来事だということです。

  蘇我氏を滅ぼしたっていう話だけなら、別に「乙巳の変(いっしのへん)」という名前があります。

  蘇我氏滅亡後の改革の内容までをここで紹介すると説明がかなり長くなってしまって僕が辛いので(笑)、ここでは主に「乙巳の変」に話を絞って進めていきたいと思います。



  話は「乙巳の変」から年ほど前にさかのぼりますが、年に飛鳥地方(奈良県)に疫病が流行します。

  有力な豪族であった「物部守屋(もののべのもりや)」は「疫病の原因は『蘇我馬子(そがのうまこ)』が仏教などを崇拝したがために日本の神がお怒りになったからだ!」と言って豪族の「中臣氏(なかとみし)」と共に仏教の排斥を行い、仏教を信仰している蘇我氏との対立を深めて行きます。

  そして587年、物部守屋は蘇我馬子に先手を打たれ殺されてしまい、これによって物部氏は滅び政治の権力は蘇我氏に集中することとなり、蘇我氏の勢力は大王をも凌ぐほどにまで成長していきます。


                 ………そして約40年の月日が流れます………


  622年、「推古天皇(すいこてんのう)」の「摂政」(天皇が子供・女性の時に政治を補佐する役)で皇太子(天皇の後継者)でもあった「聖徳太子(しょうとくたいし)」は49歳の若さで亡くなり、628年には権力者「蘇我馬子」の後押しで初の女帝(3人目との説もある)となった「推古天皇(すいこてんのう)」は次の皇太子を決めぬまま亡くなってしまいます。

  つまり、天皇が死んだのに次の天皇がまだ決まっていないという緊急事態です。

  ただ、推古天皇は候補者を2人に絞っていました。1人は聖徳太子の息子「山背大兄王(やましろのおおえのおう)」。もう1人は敏達天皇(びたつてんのう)の孫で、蘇我氏出身の母を持つ「田村皇子(たむらのおうじ)」です。
 
  そして山背大兄王には蘇我馬子の弟「蘇我摩理勢(そがのまりせ)」が田村皇子には蘇我馬子の息子「蘇我蝦夷(そがのえみし・『蘇我毛人』とも書く)」がそれぞれ後押ししており、周り人達もそれにつられて意見が真っ二つに分かれてしまいました。

  ここで先手を打ったのは蘇我蝦夷。叔父である蘇我摩理勢を攻撃し、殺害してしまいます。(628年)

  これによって周りの意見は一気に田村皇子に方に傾き、629年、田村皇子は「舒明天皇(じょめいてんのう)」として即位します。ただ舒明天皇は蘇我氏の血縁者ではなかったので、蘇我蝦夷はこのままではマズいと思い、蘇我氏の血を引く「宝皇女(たからのみこ)」を皇后(こうごう・天皇の正妻)に迎え入れさせることにしました。(ちなみにこの2 人の間から、この話の主人公『中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)』と『壬申の乱(じんしんのらん)』での勝利者『大海人皇子(おおあまのおうじ)』が生まれています。)


                 ………そして10年あまりの歳月が流れます………


  641年の舒明天皇の死後、次こそは自分が天皇になる番だと思っていた山背大兄王に、またもや蘇我氏(今度は蝦夷の息子の『蘇我入鹿(そがのいるか)』)の邪魔が入ります。

  なんと舒明天皇の次の天皇に皇后である「宝皇女」が選ばれ、「皇極天皇(こうぎょくてんのう)」として即位してしまったのです。(ちなみに皇極天皇と蘇我入鹿は恋人同士だったとの説もあります。)

  これにより「蘇我入鹿」と「山背大兄王」との溝はさらに深まってしまいます。

  険悪な空気が流れる中、先手を打ったのはまたもや「蘇我入鹿」のほうでした。 643年、蘇我入鹿の軍は山背大兄王の邸宅を急襲し、山背大兄王を始めとする一族を皆殺しにしてしまいます。

  これは皇極天皇の皇太子に「古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ・中大兄皇子の兄)」を考えている蘇我入鹿にとって山背大兄王は邪魔であったからだとされています。

  この事件で蘇我入鹿は「天皇の跡継ぎ問題」と「自分への権力集中」という2つの課題を一挙に解決することができ、蘇我氏の勢力は更に強大なものになっていきます。

  そして山背大兄王の殺害事件をきっかけに、かねてより蘇我氏打倒と天皇中心の政治の確立に燃える一人の青年が現れます。この話の中心人物「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」です。

  中臣鎌足は理想とする国家を目指すため、蘇我氏打倒に向けてその中心となるべき皇族(天皇の一族)を探し始めます。

  そして中臣鎌足は手始めに皇極天皇の弟である「軽皇子(かるのみこ)」を味方に引き入れようと接近しますが、軽皇子が全然大した人物ではなかった(笑)のでさっさと別の皇族を探します。

  そしてたまたま飛鳥の法興寺(飛鳥寺)で行われた蹴鞠の会で脱げた革靴を中臣鎌足が拾ったことがきっかけとなり「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」と知り合い(この話はチョット出来過ぎているので作り話との説もあります。)、そして 2人の仲は急速に接近(笑)、共に蘇我氏打倒に向けて手を結びます。また蘇我氏打倒には蘇我氏の人間の協力も必要だとして、蘇我入鹿の従兄弟にあたる「蘇我石川麻呂(そがのいしかわのまろ)」も仲間に引き入れます。



  ここでチョット休憩。「中大兄皇子」についての話なんですが、日本史ではかなりの有名人である彼の名前は、実は本当の名前ではないんです。(笑)


  「中大兄皇子」の本名は「葛城皇子(かずらきのみこ)」といいます。

  「中大兄皇子」っていうのは実は人の名前ではなくて、天皇の長男と末男(一番下の息子)以外の息子達を指す言葉なんです。いわゆる「次男」とか「三男」とかいう呼び方ですね。だから厳密に言えば「中大兄皇子」って人は歴史上たくさん存在することになります。

  でもいつの間にか「葛城皇子」自身を指す言葉になってしまったんです。だからといってテストの時に「葛城皇子」って書かないように。(笑)



  さぁ、蘇我入鹿を暗殺する準備は調いました。決行は皇極4 年6月12日、朝鮮半島にある3つの国々である三韓(新羅・高句麗・百済)の使者が天皇に謁見する行事が行われる日です。これには蘇我入鹿も必ず参加します。

  そして6月12日、宮中では三韓の使者達を歓迎するために芸人達が華やかに芸を披露して皆を楽しませています。

そこへ蘇我入鹿がやって来ます。入鹿はふざけながらやって来たこれらの芸人達に持っていた剣を取られてしまいますが、彼は笑って剣を渡し、丸腰のまま席について式の始まりを待ちます。

  もちろん、これは中大兄皇子らが芸人達に指示しておいた作戦です。また、三韓からやって来たという使者達も全て中大兄皇子らの手先にすり替えられており、しかも三韓の使者に代わって上表文(天皇に読み上げる文)を読み上げるのは蘇我石川麻呂です。そして蘇我石川麻呂が上表文を読み上げている最中に、蘇我入鹿に斬りかかる作戦です。

  ところが蘇我石川麻呂が上表文を読み上げているのに、斬りかかる役の人達は蘇我入鹿の威勢に恐れをなしてなかなか行動に移せません。その様子にしびれを切らせた中大兄皇子は自ら飛び出して蘇我入鹿を斬りつけます。

  驚いた蘇我入鹿は皇極天皇のもとに転げながら助けを求めます。皇極天皇は中大兄皇子に理由を問いただしますと「この者は天皇をないがしろにし、皇子たちを次々と殺そうとしております!!天皇家よりもこの者のほうが大事なのですか!!」と厳しい返事を返します。
  すると皇極天皇はその場を無言で立ち去り、見放された蘇我入鹿はその場で殺されてしまいます。

  その後すぐに中大兄皇子らは法興寺(飛鳥寺)にたてこもり、蘇我入鹿の父である蘇我蝦夷の反撃に備えます。そして皇族や豪族の多くは中大兄皇子らに味方します。

  孤立してしまった蘇我蝦夷は覚悟を決め、翌日(13日)自宅に火を放って自殺してしまい、これによって長年にわたり権力の頂点に居続けた蘇我氏の本家は滅亡してしまいます。

  蘇我蝦夷が焼身自殺した翌日の14日、皇極天皇は中大兄皇子に天皇の位を譲ろうとしますが中大兄皇子はこれを断り、代わりに皇極天皇の弟「軽皇子」(確かこの人は大した人物では無かったはずでは…。(⌒_⌒;))を推薦し、軽皇子は「孝徳天皇(こうとくてんのう)」として即位します。もちろん皇太子は中大兄皇子が選ばれます。中臣鎌足は「内臣(うちつおみ)」という役職になります。(ただ、内臣って役職名は後にも先にもこの人にしか与えられてないので、どんな役だったかは不明。)蘇我石川麻呂は「右大臣」に任命されています。

  こうして天皇中心の国家建設に向けた改革がこのメンバーにより進んでいきます。(ちなみにこの乱の直後の9月には蘇我入鹿が後押ししていた中大兄皇子の兄「古人大兄皇子」は謀反の疑いをかけられて処刑されています。)

  その後、このメンバーの内、蘇我石川麻呂は邪魔者として自殺に追い込まれ(649年)、代わって中大兄皇子の弟「大海人皇子」が加わりますが、中臣鎌足の死後(669年)このバランスが崩れ、「壬申の乱」へと話が進んで行きます。




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