トピックス第3回 「浅草寺本堂」   平成14年3月18日

ご存知でしたか?この建物は昭和20年(1945年)戦災で焼失、1958年(昭和33)に再建されました



浅草寺本堂

 本堂は南向きに建っています。この写真は東南の方から撮影、棟が高く急勾配の屋根が特徴です。右の木立は浅草神社、左の遠方にビューホテルの一部が見えます。
浅草寺発行の月刊誌「浅草寺」の平成18年11月号に浅草寺本堂とご本尊の観音さまについて「お寺の説明」が掲載されています。以下のとおりです。
 〜観音堂(本堂)〜 「時は飛鳥時代、
推古天皇36年(628)3月18日の早朝、漁師の檜前(ひのくま)兄弟が隅田川より、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得、土師氏が奉安した・・・」浅草寺縁起の冒頭部分である。
この時我々衆生を救うべくご出現なされた観音さまをお祀りするのが、浅草寺の根本のお堂である観音堂(本堂)である。また縁起には、「天より百尺ばかりの金龍が舞い降りて、観音さまをお守りした」とある。浅草寺の山号「金龍山」の由来である。多くの参詣者を迎え続け、観音民衆信仰の中心道場となっているのである。
 現在の本堂は、昭和33年(1958)にご信徒の浄財のご寄進により、再建されたものである。 
 浅草寺ご本尊さまのご示現の後17年、大化元年(645)、勝海(しょうかい)上人がこの地においでになり、留錫(りゅうしゃく)され観音堂を建立し、夢告によってご本尊の観音さまをご秘仏とさだめられ、以来今日までこのご秘仏の戒は守られている。本堂内陣の御宮殿内御厨子の中より、観音さまは我々を見守ってくださっているのである。
 浅草寺ご本尊の観音さまは、とても慈悲深い仏さまであり、人々の苦しみを見てはその苦しみを除き、願いを聞いては希望をかなえて楽しみを与えてくださる。そのご利益・ご霊験は古今無双であり、ご示現より今日まで、1400年にわたり計り知れぬほどの人々を救われご加護をされてきた。
 どうぞ皆様ご参拝下さいまして、合掌して「南無観世音菩薩」とお唱えしましょう。
金龍山浅草寺
1 所在地 東京都台東区浅草2丁目3番1号
2 宗旨 聖観音宗(総本山)
3 山・寺号 金龍山  浅草寺
4 本尊 聖観世音菩薩(秘仏)
5 御前立本尊 聖観世音菩薩(慈覚大師作)
6 本尊示現日 推古天皇36年(628)3月18日
7 開基 勝海上人(生年、没年とも不詳)
8 中興開山 慈覚大師円仁(伝教大師最澄の弟子、794〜864)
9 総寺有地 162,162平米(49,140坪)  



正面石段の2本の柱に「聯」が掛けられています。豊道春海(慶中)書、中村蘭台(らんたい)刻

右:「
実相非荘厳金碧装成安楽刹
  実相(じっそう)は荘厳(そうごん)に非(あら)ざれども金碧(こんぺき)装(よそお)いを成す安楽刹(あんらくせつ)

左:「
真身絶表象雲霞画出補陀山
  真身(しんじん)は表象(ひょうそう)を絶(ぜっ)すれども雲霞画(うんかえが)き出(いだ)す補陀山(ほださん)

 「真理の世界はとても形などには表せないが、見事に整えられた伽藍や自然の景観の妙、これこそ仏の浄土(安楽刹)であり、観音様の世界(補陀落山)である」と観音堂の存在意義を教えている。

「真(信)は荘厳(しょうごん)より起こる」という真理を説くもので、「立派な堂を見て信仰心が起こる意」で内容は形式によって導き出されるというたとえ

 大きな提灯は高さ4.6m、直径3.5m、重さはやく600kgもあります。平成16年12月、以前から寄進を続けている東京新橋組合によって新調されました。

 
本堂への石段を登って外陣へ入ると、正面に大きなお賽銭箱があって、ここでお参りする事になります。正面の上部に額と左右に聯が見えます。

外陣内

下:外陣正面「畏無施」の扁額
深見玄岱(げんたい)筆

聯1

せむい額
左右:本堂外陣の聯
野口雪江(せっこう)書
扁額の説明
「畏無施」は右から「
せむい」と読みます。これは観音経にある言葉です。
畏れ無きを施す」ということで、言い替えると「誰にでも悩み、苦しみはあって、生きていく上で不安を感ずるものです。特に精神的な不安感によるおそれを除いて下さるのが観音様です」という意味です。
 
聯の説明:善導大師の般舟讃文(はんじゅざんもん)の句中の語で
右「仏身円満無背相」:仏の教えは全て円満、背くことは無い
左「十方来人皆対面」:いろんな所から大勢の人が集まる所

この意味は「
観音様はどんな人でも、何処からきた人でも、まったく分け隔てのない救いの手を差しのべて下さる」という、観音様のご誓願を表す言葉です。

浅草寺旧本堂大棟復元

復元屋根


復元屋根2

上の写真は東京両国にある「江戸東京博物館」に展示されている、旧浅草寺本堂(徳川家光建立)の大棟を復元したものです。寺の紋である金色の卍、鬼にしてはやさしい顔、頭の先端にも卍の紋が付いています。
この展示物は博物館の外にありますので、これを見るだけなら入場券は要りません。
以下の説明がついています。 
 浅草寺旧本堂大棟復元
 浅草寺旧本堂(国宝指定建造物)は、1649年(慶安2年)に完成し、1721年(享保6、吉宗将軍)に大修復が行われるなど、度々修復を繰り返してきたが1945年(昭和20)戦災炎上に至るまでの間、観音様をお守りしてきた貴重な建造物であります。
 今回の企画は、享保の大修復の時に造られ、現に健在保存されている大鬼面瓦(享保6年作)を拝借し、忠実に部分原寸大の大屋根を復元しようとするものであり、同時に日本鬼師の会会員の伝統技術の向上を図ろうとするものであります。
棟大棟の飾りの上に、当時の貴重な鬼瓦に再び出現を願い、今は当時を知る人も少なくなっていますが、少なくとも大正大震災当時の面影を想い出していただき、昔日の国宝浅草寺の大棟再現の姿を間近で鑑賞されることは、観音様の御心が伝わることと信じます。   
 除幕式 平成11年11月9日

     主催  日本鬼師の会  鬼伝説の町京都府大江町
     共催  東京都江戸東京博物館  世界鬼学会
     協力  浅草寺
     助成  (財)日本芸術文化振興会

浅草寺本堂の詳細
1 構造  鉄筋コンクリート造り、本瓦葺き、入母屋造り
2 大きさ 間口:34.5m、奥行き:32.7m、棟高:29.4m、柱数:56本、総面積:3,407.9u、建坪:1,368.8u
3 建立年 起工 昭和26年5月19日、完成 昭和33年10月15日
4 屋根の瓦 チタン製、厚さ0,3mm、総数:やく90,000枚、鬼瓦の数:18個(子鬼瓦ともアルミ製)、大きな鬼瓦:畳6畳分の広さ
5 外陣 アスファルト敷き、面積:478.5u、天上に堂本印象の「天人之図」と川端龍子の「龍之図」それぞれ縦:6.4m、横:4.9m(各一枚が畳19畳分の広さ)
中央長押に「畏無施」の扁額、左右に「聯」、賽物箱、おみくじ、お札などの売店
6 内陣 畳敷き、面積:487.9u(中央の御宮殿、脇陣の合計)、天井に龍と鳳凰の図、脇陣右奥に不動明王、左奥に愛染明王を祀る。
7 御宮殿
(ごくうでん)
鎌倉時代末期の形式(三方軒唐破風造り、檜材、金箔押し)で昭和30年春に完成、奥の部屋に秘仏本尊聖観世音菩薩と御前立本尊を安置、「梵天」・「帝釈天」の二天像が守護しています。
この本堂の再建の資金については浅草寺発行の「昭和本堂再建誌」詳しい説明があります。全国の信徒数十万人からの寄付と地元の協力によって集められました。屋根の瓦には寄進者の名前が刻まれているそうです。この瓦は平成23年完工のチタン瓦への交換ですべて降ろされました。
当時の建築費用はやく3億1300万円(うち信者からの寄付による資金1億8300万円、浅草寺が土地の売却などによって1億2800万円を負担)を要したそうです。

浅草寺の歴史
628 推古36 土地の漁師、檜前浜成・竹成兄弟隅田川で観音像を網で掬い上げ、これを土地の長、土師中知が観世音菩薩と知って自宅に安置し礼拝供養しました。
 浅草寺の草創に関わる主役は、地元の漁業に従事していた人達であって、いわゆる高僧や権力者・著名人との関わりが無いことが特徴とされます。(この記述については「土師中知は渡来人」という部分を削除しました。2009、10、28)
 一般にお寺や神社は、偉いお坊様や権力者によって造られることが多いものですが、浅草寺の場合はこのように庶民が主体であり、経済的後援者が浅草の一般庶民であったことが後々まで庶民に愛されてきた、一つの要因であろうと思われます
645 大化元 勝海上人、本堂を修復し本尊を秘仏とする(この年は「大化改新」が実施された年です)
857 天安元 円仁(慈覚大師)、聖観音像を納め、御前立本尊とする
942 天慶5 平公雅、堂塔伽藍を再建、田園数百町を寄進
1041 長久2 大地震により本堂など倒壊
1051 永承6 寂円上人、本堂を再建
 浅草寺の歴史を見るとき、記録されているだけでも十数回に及ぶ火災にあっています。見方を変えれば浅草寺の歴史は炎上と復興の歴史と言えます。
 浅草だけの問題ではありませんが江戸時代になって、人口の増加から住宅は密集し、火事は度々大火事となりました。
江戸の街自体が火事と復興を繰り返し、その度に街が拡大していったということも出来ます。
浅草寺の被災と再建の歴史
1041 長久2 大地震により本堂など倒壊
1051 永承6 寂円上人、本堂を再建
1079 承暦3 12月4日、炎上
詳細は不明 信者の寄進により再建
1378 永和4 12月13日、炎上
1398 応永5 定済上人によって再建
1462 寛正3 1月12日、落雷で炎上
詳細は不明 1472年ころ再建
1493 明応2 月日は不明、炎上
1535 天文4 8月18日、炎上
1539 天文8 小田原北条氏綱が再建
1572 元亀3 月日は不明、炎上
1581 天正9 10月15日、北条氏直が再建
1618 元和4 徳川秀忠が浅草東照宮を建立
1631 寛永8 4月2日、炎上
1635 12 徳川家光が再建、この頃小掘遠州により伝法院の庭が作られた
1642 19 2月19日、門前の町屋よりの出火で炎上
1648 慶安元 徳川家光が再建(五重搭、翌2年本堂・仁王門)
1772 安永元 2月29日、伝法院、子院など炎上
1777 6 伝法院を再建
1865 慶応元 12月12日、雷門炎上
1923 大正12 9月1日、関東大震災により念仏堂など焼失
1945 昭和20 3月10日、太平洋戦争により焼失、
現在の建物の復興 昭和33年・本堂、35年・雷門、39年・宝蔵門、48年・五重搭、58年・弁天堂を再建
1070 延久2 八幡太郎源義家、奥州征討の途中に戦勝を祈願
1180 治承4 源頼朝、平家討伐を祈願
1181 養和元 吾妻鏡によると、鎌倉の鶴岡八幡宮造営のため、浅草から大工3名を派遣
1192 建久3 同じく、吾妻鏡、後白川法王法要の為、浅草寺の僧侶3名を派遣
1251 建長3 同じく、吾妻鏡、浅草寺には僧侶50名あり
上記の吾妻鏡に見られる記事によって、この頃の浅草寺は関東でも有数の規模の寺院であり、浅草が寺院築造の技術を認められ、経済的にも余裕を持っていたことを証明するものといえる
1394〜1427 応永 この頃「浅草寺縁起」(応永縁起)が出来た
上記の「応永縁起」は推古天皇から応永年間(1394〜1428)までの出来事を詞書と絵によって伝えるものです。
 
浅草寺の草創期を伝える唯一の資料ですが、作者は不明、その後に出された「○○縁起」等の資料はこの応永縁起を引用したものです。
1590 天正18 徳川家康、浅草寺を祈願所に定め、寺領500石を寄進
1644 正保元 この頃、幕医の板坂卜斎が浅草寺領内に日本で最初の図書館「浅草文庫」を設立
1662 寛文2 上州沼田の城主、滋野伊賀守信澄が狩野氏信に画かせた「浅草寺縁起絵巻」7巻を奉納、「寛文縁起」として6巻が現存
 資料によって、建立の年には若干の相違があります。いずれにしても完成するのは相当あとの事で、資料「東京下町散策図」には本堂は慶安3年(1650)に造り始めて、完成は42年後の元禄5年(1692)綱吉の時代という記述があります。
 
この時に建てられた五重の搭、浅草寺本堂、仁王門は第二次世界大戦による、昭和20年3月10日の東京大空襲で戦災に遭い焼失しました。
 上記のように火事の多かった江戸時代から昭和の時代まで、約250年余りを守り通した関係者の努力は大変なものだったと推測されます。浅草神社と伝法院、二天門だけでも戦火を免れ現在に残されている事がせめてもの救いといえます。
1685 貞亨2  浅草寺住職で江戸城紅葉山東照宮の別当を命じられてた第三世忠運が、五代将軍徳川綱吉の忌避に触れて罷免される。以後、浅草寺は輪王寺門主の監督を受ける事になる
 元文5年(1740)から別当代(副住職)が置かれ、毎日の寺務を寛永寺に報告するための記録が「日並記」として残されています。現存しているのは寛保4年(1744)から慶応3年(1867)間での分で、お寺の歴史を知る重要な資料になっています。
1871 明治4 高仲貞運尼、元版一切経(現在、重要文化財)を寄進
1910 43 隅田川の氾濫による、大洪水が発生、境内に救護所を設けて傷病者の治療を行う。現在の浅草寺病院の前身となる。
1911 44 浅草寺本堂と五重の搭が国宝に指定される
1945 昭和20 3月10日、空襲で本堂、五重の搭、仁王門など焼失
11月18日、仮本堂完成(現在の淡島堂)
1951 26 5月19日、新本堂起工
1958 33 10月17日、本堂完成(多くの信者の寄進)
1960 35 5月1日、雷門完成(松下電器、松下幸之助寄進)
1964 39 4月1日、宝蔵門完成(ホテルニューオータニ、大谷米太郎寄進)
1966 41 3月18日、五重の搭に奉安の仏舎利をスリランカの王立イスルムニア寺院より贈られる
1973 48 11月2日、五重の搭院完成
1983 58 3月28日、弁天堂完成
1994 平成6 10月15日、本堂の西側境内の整備工事完成
10月20日、影向堂完成

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