隅 田 川
区切り線

太古の時代から浅草の発展に大きな関わりをもつ隅田川のご案内です。
浅草は、この川で漁師の網にかかった小さな観音菩薩像が始まりです。

川の名前 渡し舟 人との関わり 浄化大作戦 現在の橋
川の名前
隅田川の名前は地域によって、時代によってそれぞれに名前がつけられ呼ばれていたようです。細かく言うときりがないくらい呼び方があったようですが、要約すると古くは「宮古川」「住田河」、あるいは「澄」「墨」「角」の字が当てられてもいました。江戸時代ころには吾妻橋近辺までの下流は「大川」、浅草近辺は「浅草川」、「隅田川」、上流は「荒川」「宮古川」というのが大まかな経過のようです。
 明治43年の水害を機に荒川放水路が作られ、後昭和40年放水路の方を荒川、岩淵の水門から下流東京湾までの23Kmを正式に隅田川という名称にしました。
渡し舟
資料「隅田川の橋」によると835年(承和2)の太政官符に「下総国と武蔵国の堺に住田河があり、その住田の渡しの通行が増したので、今まで2艘の渡し舟を4艘にする」とあるそうです。この住田の渡しは、現在の白鬚橋の上手、石浜神社と隅田川神社を結ぶあたりにあったものですが、この頃すでに中央政治の力がこの地にも及び、このようなことまで支配していたことを知ることが出来ます。
 渡し舟が頻繁に使われるようになったのは、江戸時代になって周辺の人口が増してからになります。
舟は10人前後のお客を乗せて両岸を往復していました。近くに橋が出来るまでは盛んに利用されたようです。
主な渡しは上流から山谷掘にあった船宿の名前から取った「竹屋の渡し」、現在の隅田公園東武鉄橋の上手近くからアサヒビール工場への「山の宿の渡し」、吾妻橋近くの「竹町の渡し」、駒形橋の付近に「駒形の渡し」、厩橋には「御厩河岸の渡し」、幕府の米倉が近くにあったので「御蔵の渡し」、富士山がよく見えたので「富士見の渡し」等などいくつもあったようです。
竹屋の渡し跡の碑
竹屋の渡し跡
山の宿の渡し跡の碑
山の宿わたし跡
台東区側の隅田公園の中、台東区立リバーサイドスポーセンターの南側広場の端に立っています。 台東区側の隅田公園の中、東武鉄橋の北側で隅田川の堤防に背を向けて立っています。
川と人の関わり
 住民の生活用水、農業用水、食料としての魚貝や海藻類の供給源、人や物資の輸送路として住民と深いかかわりを持ってきました
 特に江戸幕府が開かれてからは河川を利用した運送が経済を支え、関東一円から利根川水系を経由して東京湾へ繋がる隅田川はその川岸や川に通じる運河の周辺に、多くの倉庫が立ち並び運送業や旅客業が発展しました。また、屋形船や釣り舟、猪牙舟、渡し舟なども発展して川遊び、堰堤での花見、花火見物、交通手段として親しまれてきました。平時の隅田川は川幅や水量が人々の利用しやすい規模であり、江戸市中第一の歓楽地を控えた浅草が近いことなどから、多くの
市民にとっての憩いの場所となっていました。
 
明治時代に入って工業化が進むと、船便による交通手段の利便性から川沿いに多くの工場が作られましたが、現在の南千住地区に国鉄の貨物駅が作られて貨物輸送の手段が徐々に近代化され、船便から鉄道さらに自動車輸送へと移行して船便の利用は減少して行きます。高度成長がもたらす恩恵の一方で工場や家庭からの有害な排水の増加は水質を悪化させ、洪水から住民を守るためとはいえ、川岸まで行っても水面を見ることが出来ないほどの高さの防潮堤などの治水工事は水の都の景観を失わせることになりました。
 隅田川は水源をたどれば甲武信ケ岳(こぶしだけ・甲斐、武州、信州の頭文字)を源流として、奥秩父の山々を経由してくる荒川の下流でした。
 さまざまな利便があった一方で
度々の洪水被害ももたらしてきました。特に明治43年の洪水では数十箇所の堤防が決壊、浸水家屋27万戸、被災者150万人、被害地域は岩淵、志村、王子、日暮里、千住、下谷、浅草、深川、向島、亀戸などに及び水が引くのに2週間もかかるという大災害となりました。政府はこれを契機にかねてより懸案とされてきた荒川放水路の掘削を決定し、北区岩淵から直接東京湾への水路の建設に取りかかり約20年の年月を費やして昭和5年に完成、隅田川は荒川の支流となりました。
隅田川の浄化大作戦
 隅田川にはいくつかのルートで水上バスが運行され、観光客を隅田川に戻す努力がされています。日本が高度成長に浮かれていた頃、周辺の汚染物質をすべて飲み込んで「生き物は生息できない」と言われ、悪臭の為に市民から川に近寄るのも敬遠されるほど汚染されていた隅田川も、浮間浄水場の建設など昭和30年以降の隅田川再生をめざす懸命の浄化作戦によってかなりきれいになり、まだ種類は少ないものの魚や水鳥たち、さらに岸辺の水生植物にも回復の兆しがみられようになってきました。
 夏の夜、特に花火大会の日などは多くの屋形船が出て夏の夜を楽しむ人たちを見ることが出来ますし、早慶戦をはじめ各種のボート競技の開催、水上バスでの観光や場所によっては魚つりを楽しむ人たちを見ることが出来るようになってきました。
  浅草の近く吾妻橋から白鬚橋の間の岸辺は、都民や観光客の散歩道としてせっかくテラスが造られたものの、特に右岸の方は数年前から住む家をなくした人たちに占領され、気楽に散策するにはあまり適当な所ではなくなってしまったのが残念です。この人たちが人間らしい住宅に住み、テラスが市民の憩いの場に戻るのはいつになるのでしょう。
川に架かる橋
昔は戦略上の理由から、川には橋を架けないのが普通でした。隅田川に架けられた最初の橋は次の表のように千住大橋で1594年(文禄3)徳川家康によって架けられました。この千住大橋は伊達政宗が、水に強いとされる犬槇(いぬまき)を橋材に調達して架けられ、明治18年の大洪水まで約300年間一度も流失しなかったそうです。次に両国橋が架けられまで66年間隅田川に架かる唯一の橋でした。
江戸時代にはさらに永代橋、新大橋、吾妻橋が架けられたが吾妻橋のように
民間人の手で架けられ通行料として橋銭が徴収される橋もありました。他に多くの渡し舟が運行されて住民の便に役立っていました。
 現在では足立区の千住大橋から下流の隅田川に架かる橋は上流の方から千住大橋、水神大橋、白鬚橋、桜橋、言問橋、東武電車鉄橋、吾妻橋、駒形橋、厩橋、蔵前橋、JR総武線鉄橋、両国橋、首都高速道路、新大橋、清洲橋、隅田川大橋、永代橋、中央大橋、佃大橋、勝鬨橋と25橋に及びます。正確には他にも鉄道の橋などがあったり、上流には7本の橋がかけられていますがここでは省略します。
 
関東大震災で多くの橋が被害を受けたためにその復興事業として昭和のはじめの時期に架け替えられたり修理された橋が多く、さらに近年交通量の増加にあわせて新規に架橋されています。この中で桜橋はただひとつ歩行者専用の橋として使われています。
次は隅田川に架かる橋の名前と説明です。
橋の展覧会とも言われる隅田川の橋、関東大震災の復興事業として国は総力をあげて道路や橋の復旧に取り組みました。
 同時にいくつもの橋を架けることになったのですが、橋の一つずつを特徴あるものとするために、個別に設計を行って均一的な方法は取りませんでした。日本に始めて登場した吊り橋の清洲橋、アーチ式の永代橋などの傑作が生み出されました。
中にはいかにも頑丈そうな実用本位に見える橋もありますが、最近になって架けられた橋も含めてさまざまな構造、デザインの橋の競演という形になっています。
 水上バスに乗って、次々に現れる橋の美しさを鑑賞するのも楽しいものです。
ここでは橋の長さも記していますが、最近架けられた橋の中には川岸の道路などをまたぐ必要から、相当手前から橋が始まり川幅よりかなり長い橋になっていることがあります。
橋の名前
最初の
架橋年
道路の名前
橋の長さ
と巾
現在の
橋の

完成年
両岸の
町名
記  事
千住大橋
1594
日光街道
91.7m
24.2m
502.5m
18.9m
昭和2年
と48年
荒川区
南千住
足立区
千住橋戸
千住は奥州街道の始まりの地点で、江戸を出て最初の宿場として栄えた。芭蕉が奥の細道への旅行を始めた地点として記念碑や写真のような説明図などが、橋の袂の公園に作られています。上りと下りが別々の橋になっています。
せんじゅおおはし(下り線、むこうが上り線)
千住大橋
橋のたもとにある芭蕉の説明
芭蕉の行程図
水神大橋
1988
主要地方道157.0m
17.0m
昭和63年
3月
荒川区
南千住
墨田区
堤通
墨田区側の近くに墨田神社があり、亀に乗って現れた水神様を祀っていることからこの名がつけられています。白鬚の防災拠点として架けられたが昔は近くに「水神の渡し」があった。
すいじんおおはし
水神大橋1
スマートなデザインとブルーが印象的
水神大橋2
白鬚橋
1914
明治通り
168.8m
22.1m
昭和6年6月 台東区橋場
墨田区堤道り
最初は付近の人たちが資金を出しあって架けられた木造の橋で有料だった。橋場と堤通り結ぶ橋でこの橋は台東区の北の端になるが、橋の名は近くの白鬚神社にちなんだもの。ここには以前、「橋場の渡し」があった。
しらひげばし
白鬚橋
見るからに頑丈な作りです
白鬚橋2
桜橋
1985
歩行者専用
169.5m
最大幅20m
接岸部6m
昭和60年3月 台東区
今戸
墨田区
向島
両岸のすみだ公園を結ぶ歩道橋でX字型の曲線を描いているが、その曲線の様子は上空からしか確認できないため設計の段階で議論があったとのことです。総工費28億円余
さくらばし
桜橋1
近くの住民には絶好の散歩道
桜橋2
言問橋
1928
水戸街道
236.8m
22.0m
昭和33年
2月
台東区
花川戸
墨田区
向島
聖天町と隅田公園を結ぶ橋で、橋の名は在原業平の歌「いざ言問わん都鳥」から取られている、完成までは待乳山下の今戸橋から向島の三囲神社前まで「竹屋の渡し」)があった。戦災時には多くの人が橋上で犠牲になった。
ことといばし
言問橋1
景観よりは実用性
言問橋2
東武線
鉄橋
1931
伊勢崎線 昭和6年 浅草駅
本所
吾妻橋駅
浅草発の電車が渡る最初の鉄橋、運良くその時刻に乗り合わせれば花火大会の絶好の見物スポットです。
東武電車鉄橋
東武鉄橋1
東武鉄橋2
吾妻橋
1774
雷門通り
150.3m
20.0m
昭和6年
6月
台東区
浅草
墨田区
吾妻橋
橋が出来るまでは花川戸から渡しがあった。安永3年花川戸町伊右門衛門という町人が私費で架け維持のため橋銭を徴収、正しい橋名は「大川橋」だったが「吾妻橋」と呼ばれることが多かった。流失と架け替えを繰り返し明治8年の架け替えの際に正式に「吾妻橋」となる。明治20年隅田川で最初の鉄橋となったが、床部分は板張りだったため大震災のとき焼け落ちた。
あずまばし
吾妻橋1
すぐ近くに水上バス乗り場
吾妻橋2
駒形橋
1929
浅草通り
146.3m
22.0m
昭和2年
6月
台東区
雷門
墨田区
東駒形
橋の名は袂にある駒形堂による。関東大震災の復興事業として架けられた橋で、太い石造りの橋脚に風格を感じる。ブルーのアーチが美しく、橋の途中に欄干を膨らませたバルコニーが作られている。それまで「駒形の渡し」があったところです。
こまがたばし
駒形橋1
中央は上、両脇は下にアーチが
駒形橋2
厩橋
1874
春日通り
151.4m
21.8m
昭和4年
9月
台東区
駒形
墨田区
厩橋
明治7年に最初の橋が架けられたが、以前は元禄の頃から「御厩(おんまい)の渡し」があった所。西岸に幕府の馬小屋があったことからこの名がついた。現在は「うまやばし」と呼ばれているが、江戸時代は「おんまやばし」。
うまやばし

三連のアーチ式
厩橋2
蔵前橋
1927
蔵前橋
通り
173.4m
22.0m
昭和2年
11月
台東区
蔵前
墨田区
横網
蔵前という地名は江戸時代に幕府の米倉や酒蔵が100軒も建ち並び、札差などの大富豪が住んでいた地域、米などが陸揚げ貯蔵された所で隅田川から8本の堀が船着場に作られていた。
くらまえばし
蔵前橋1
アーチ式の橋脚
蔵前橋2
JR総武線
鉄橋
総武線 昭和8年 浅草橋駅
両国駅
通勤の大動脈、東京東部と千葉県から毎日数十万人が都心への足として利用しています。
総武線鉄橋
総武線1
おそらく一番多くの人を運ぶ橋
総武線2
両国橋
1659
京葉道路
164.5m
24.0m
昭和7年
12月
中央区
東日本橋
墨田区
両国
最初の橋は1657年(明暦3)の大火のあと江戸の市域を隅田川の東へ広げる目的で1659年(万治2)現在の位置より100m下流にかけられた。橋の名は当初大橋と呼ばれたが武蔵と下総2国を結ぶことから。明治37年鉄橋となった。
りょうごくばし
両国橋1
橋げたの壁面に「両国橋」の文字
両国橋2
首都高速道路 首都高速小松川線と向島線
257.7m
27.5m
中央区
浜町
墨田区
両国
首都高速道路
首都高速1
都心から出た高速道路は隅田川の西岸(この写真では左側)を走って、ここで東岸へ渡りながら川の上で立体交差して2つの方向へ分かれます。小松川線は千葉方面への京葉道路になります。向島線は隅田川に沿って上流へ走り、中央環状線から東北道、常磐道方面と東京湾へ向かって行って湾岸線へと接続しています。
新大橋
1693
新大橋通り
170.0m
24.0m
昭和51年 中央区
日本橋
江東区
新大橋
最初は元禄年間に完成した隅田川で3番目に古い橋、現在の橋は中央の搭からケーブルで橋げたを支えている斜張橋。明治45年鉄材を使って架け替えられたため、関東大震災時には隅田川で唯一焼けずに人々の避難路になった。
新大橋
新大橋1
黄色の柱が印象的
新大橋2
清洲橋
1928
清洲橋
通り
186.2m
22.0m
昭和3年
3月
中央区
新川
江東区
佐賀
架けられた当時の両岸の地名は清澄町と中州町だったのでこの名がついた。当時世界一美しいといわれたライン川のケルンの吊り橋をモデルにしており、美しい曲線を描くこのつり橋の人気は高い。
きよすばし
清洲橋1
美しさを鑑賞してください
清洲橋2
隅田川大橋
1979
首都高
/都道
391.7m
29.5m
昭和54年
10月
中央区
日本橋
江東区
佐賀
船の行き来が多くて橋脚を多く出来ないため上の橋が下の橋をケーブルで吊って支える二重構造になっている。高速道路と都道が重なっており、京浜、京葉地帯を結ぶ湾岸道路へ通じている。
すみだがわおおはし
隅田川大橋1
いろんな制約を克服して
隅田川大橋2
永代橋
1698
永代通り
184.7m
22.0m
大正15年
12月
中央区
新川
江東区
佐賀
最初の橋は元禄年間に隅田川4番目の橋として完成した。現在の佐賀町付近は当時永代島と呼ばれていたため。当時は船の通行の便宜を図って橋げたを高くしていたため、橋上からの眺めがよく富士山や筑波山まで見渡す事が出来た。
えいたいばし
永代橋1
どっしりとした重量感
永代橋2
中央大橋
1993
主要地方道
215.0m
25.0m
平成5年
8月
中央区
新川
中央区佃
隅田川で最も新しい橋、両岸は高層建築が林立し開発の拠点となっている。隅田川とパリのセーヌ川は友好河川なのでデザインはパリ市に委託、日本の兜をイメージして作られている。全体の斬新なデザインや歩行者への細かな配慮がされたまさに最新の橋にふさわしい。
ちゅうおうおおはし
中央大橋1
竪琴が連想されます
中央大橋2
佃大橋
1964
一般都道
567.3m
25.2m
昭和39年
8月
中央区
明石
中央区
月島
隅田川に架かる一般道路橋としては第二次大戦後最初にかけられた橋。江戸時代から300年間「佃の渡し」があったが、この橋が完成して姿を消すことになった。
つくだおおはし
佃大橋1
 これらの写真は、日の出桟橋から浅草へ行く水上バスから撮影しました。浅草より上流の分は川岸からの写したものです。
船からの撮影では次々に現われる橋に追われて、ゆっくり考える間もなく船の振動もあるしでなかなか思ったようにはなりませんでした。船の前から撮るか、後ろから撮るかで光線の具合も逆になりますし、二つの橋が重なってしまって何を写したのかと後で首をひねる始末でした。お気付きかもしれませんが、この写真は船の前方から写したもので屋根の庇が写っています。
 
 
勝鬨橋
1940
晴海通り
246.0m
22.0m
昭和15年
6月
中央区
勝鬨
中央区
築地
明治38年日露戦争に日本が勝利した頃近くの築地と月島を結んでいた渡しを「勝鬨の渡し」と称したのが名前の由来、隅田川の最下流に架かる橋で東洋一の可動橋であるが、現在は橋の上の交通量が多く開けられることはない。
かちどきばし

開くところを見たいものですね
勝鬨橋2
両国橋の歴史
 「火事と喧嘩は江戸の花」といわれれたほど江戸の町は度々大火事に見まわれた。その大火事を契機に江戸の町は大きく発展を遂げて行きます。
 別の名を「振袖火事」とも言われる1657年1月(明暦3)の「明暦の大火」は、江戸城の本丸をはじめ江戸の町の大半を焼きつくし、10万人に及ぶ焼死者が出たと伝えられています。当時の隅田川には上流の千住大橋だけがあるのみで他に橋はありませんでした。そのため川岸で多くの人が逃げ場がなくて亡くなっています。
 幕府はこのような災害時の対策と、以前から懸案になっていた隅田川東部の活用を図るために橋を架けること決め、やく1年半の工事で1659年(万治2)「両国橋」が完成しました。橋の名前の「両国」とは橋の東側の「本所」は当時はすでに武蔵国に属していましたが以前は「下総国」に属し、橋の西側は「武蔵国」で2つの国を繋ぐということから名付けられたそうです。
 現在の総武線「両国駅」の近くに「江戸東京博物館」があり、この展示室に両国橋の復元模型が展示されています。これによりますと、橋の西側広場は広小路と呼ばれ「歌舞伎芝居」など見世物小屋や「髪結い床」「水茶屋」「楊弓場」などが並び、「すし」「てんぷら」「そば」などの屋台、色々な物売り、大道芸人なども集まって、江戸市中でも代表的な盛り場が出来ていました。
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