浅草の歴史年表
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ご存知でしたか? 浅草寺は1400年も前に始まっているのです
隅田川はつい数十年前まで荒川の下流だったので
西暦 元号 記             事
628 推古 36  この土地の漁師、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟が3月18日隅田川で観音像を網で掬い上げ、これを土地の長、土師中知(はじのなかとも)が観世音菩薩と知って自宅に安置し礼拝供養しました。この菩薩像は高さ1寸8分、5.5cmの小さな観音像でした。
 このころ、
近畿地方に日本の政治の中心が成立して、その支配力が関東にも及んできた。中央である近畿から見ると、関東を含めて東北まで、すべて「東国」と呼ばれる辺境の地として扱われており、中でも現在の東京湾の奥に面した、千葉・東京地区はかなりの部分がまだ海であり、利根川水系の影響を大きく受ける湿地帯でした。
この一帯は太古の時代から高台になっていた現在の待乳山、弁天山、鳥越神社付近などから陸地化が進み隅田川(昔は宮古川など色々な名でよばれていた)の河口近くで海の幸にも恵まれ、やや高台でもあって災害からも避難しやすい土地でした。観音信仰を中心にして人々が集まり、集落も発達し、物々交換の場が出来て集落は広がって行きました。これらのことから江戸文化の発祥地ともされています。
645 大化 飛鳥の都から浅草を訪れた勝海上人が現在地に観音堂を建立、本尊を秘仏としました。このことから勝海上人は開基(浅草寺を創立した僧)とされています。
835 承和 2 隅田川の石浜近辺にあった、奥州街道の渡し舟の数を2艘から4艘に増加した記録があります。
857 天安 1 円仁(慈覚大師)、聖観音像を作り御前立の本尊として本堂に納めました。このことから慈覚大師は中興開山の僧とされています。
889-898 寛平年間 「伊勢物語」によると「在原業平」がこの頃東国を旅行、隅田川で和歌を詠んだと言われています。
942 天慶 5 安房国守から武蔵国守に任じられた平公雅が荒廃していた本堂を再建し、雷門、五重搭、仁王門など建立しました。
1070 延久 2 八幡太郎源義家の奥州征伐の途中に参詣、戦勝を祈願しました。
1150頃 久安? この頃源義朝が参詣し、火災の折に本尊が避難された古い榎材を用いて、聖観音像を彫らせて納めました。(この像は現存)
1180 治承 4 源頼朝が平家討伐の戦勝祈願に参詣しました。
平家との戦いに源頼朝は浅草を兵站地として利用した。また鎌倉幕府を開く時(1181年:治承5)に鎌倉の宮大工では不足なので、武蔵国浅草から宮大工の派遣を命じたと伝えられる(吾妻鏡)。浅草がこの当時すでに大きな財力と高い文化を持つ町であったことを証明していましす。
1387 至徳 4 5月3日、浅草寺の鐘を鋳造(至徳の鐘・伝法院に現存)
1394〜427 応永 この頃「浅草寺縁起」(応永縁起)が出来ました。
1486 文明 18 太田道灌、隅田川で舟遊びを催す
1539 天文 8 小田原城主北条氏綱が天文4年に焼失した浅草寺を再建
1500年代 室町時代 このころ浅草六角堂(現存)が造られた(異説では1618年)
1590 天正 18 徳川家康浅草寺を祈願所と定め、寺領500石を寄進した
1603 慶長 8 徳川家康、江戸に幕府を開く
1618 元和 4 秀忠、東照宮を境内に建立
1624 寛永 東叡山寛永寺の建立工事始まる。2年に本坊は竣工
1626 3 上野に東照権現を祭る御宮(のちの上野東照宮)を造宮
1635 12 浅草新寺町界隈が整理され寺院街化が始まる
1636 13 江戸城36門のひとつ、浅草見付門を建設
1642 19 浅草寺観音堂、浅草東照宮を火災で焼失、東照宮の権現像は浅草神社に合祀される
1645 正保 2 家康を祭る神社に、東照宮の宮号が与えられた
1648 慶安 1 旧五重搭を徳川家光が再建
1649 2 浅草寺本堂、仁王門、浅草神社(現存)、二天門(現存)など徳川家光が再建
1657 明暦 3 明暦の大火(振袖火事)、この後吉原が人形町から浅草北部の日本堤へ移転し新吉原が出来た。東本願寺(東京本願寺)も現在地に移転してきた
1659 万治 2 この頃から浅草年の市(現在の羽子板市)始まる。(別に寛文4年(1664)創始の説もある)
1682 天和 2 この頃、浅草広小路に奈良茶飯屋が開店する。(日本で最初の食堂と言われる)
1685 貞享 2 浅草寺別当第3世忠運僧正が幕府の忌避に触れて退職、同年より日光門跡(寛永寺も兼帯)天真法親王の兼帯となり、以後明治まで浅草寺は寛永寺の支配下となる。
1687 貞享 4 観音の二菩薩(勢至菩薩、観音菩薩)を上野国館林の高瀬善兵衛が、主家への報恩のため建立(現存、露座のため濡れ仏と呼ばれている)
この頃(貞享年代) 参道脇の子院の前に、床店など仲見世の始まりが見られる
 資料「江戸浅草を語る」によると、大英博物館が所蔵する絵巻が存在しており、1720年代(享保5、6年頃)の上野から浅草へかけての町の様子が詳細に描かれているそうです。
 この絵巻は筆者は不明ですが、「浮世絵大観大英博物館1」に収められています。
雷門から始まる浅草寺の場面のところでは「門のあたりに貴人の下山を待つ立派な駕籠が描かれ、この雷門には大提灯は見えないので、1767年(
明和4)焼失以前の門である事が分かる。雷門を入ると楼門まで、今は仲見世だが、当時は左右に6軒ずつの子院が並んでいた。
 右側の知光院の立派な門前の塀にごく小さな小屋掛けの店が見える。仲見世は享保の頃から始まったとされているがその実証はなく、この絵によって
茶店や笛などを商う店がわずかに出来ていたことを示す貴重な図だといえる。
さらに伝法院、仁王門、広場での「のぞきからくり」の様子、
本堂の東側に立つ五重の搭、雷門から本堂まで当時はまだ石は敷かれていなかった様子、本堂への階段が一段目だけ石でそれから上は木製であること、武家・町人などの老若男女、多くの参詣人の着飾った生き生きとした様子、どの人の顔を見ても観音様に対する敬虔な気持が描かれている。
 本堂左側の出口に見える大きな提灯、信者によって奉納される大提灯がこの時期に既に始まっていた証拠、本堂裏の熊谷稲荷の鳥居と本堂の一部が描かれた絵で浅草の部分は終わっている。
 管理人が最近購入した、台東区発行の書籍「ビジュアル台東区史,価格2000円」(印刷は凸版印刷株式会社)および浅草寺発行の「図説・浅草寺、今むかし」(発売・東京美術、印刷は凸版印刷株式会社、価格1500円)の中に上記の絵巻の一部が掲載されています。
上に記述しているとうりの見事な絵巻です。出来ればスキャナーを使ってこのページに挿入できればと思い、台東区広報課へお願いしましたが、残念ながら断られてしまいました。興味を持たれた方は書店や図書館などで探して見てください。一見の価値は充分にあると思います。(この項は2002年1月11日記述)
 資料「東京歴史物語」によると、江戸の人口は享保8年(1723)に幕府が行った調査によると、江戸の町の数1,678、戸数128,500、人口は武家を除いて531,400人(男225,700人、女305,700)、他に出家26,100人、山伏6,100人、神主1,000人、禰宜900人、吉原遊郭の人数8,200人、小女8,100人など合計581,800人、武家の人数はこれ以上と推定されるので総計で100万人を大きく越えることになり、当時の北京、ロンドンと並ぶ大都市ということになる。
  
 ところが別の資料「江戸浅草を語る」にも上記の翌年、享保9年の人口調査の結果が記載されています。
この資料によると、町人人口462,102人(男301,125人、女160,977人)となっています。これは町方支配町人と寺社門前町人との合計数です。調査の方法など詳細は不明ですから、何故こんなに差があるのか分かりませんが、総数はともかく男女の比率が大きく異なっています。
 発展を続ける江戸の街には多くの建設労働者(男の仕事)を必要とし、これに応えて地方の農村から仕事を求める人たちが流入したことは容易に想像できます。また、商家の従業員も多くは男で占められていたはずです。
 地方から出てきた独身の男性が、どんな仕事についても江戸で所帯が持てるようになるには大変な事だったはずです。このようなことから、あとの資料のほうが説得力があり、納得できる数字と思います。武家を含めた総人口では前者と同様の記述があり、やはり当時としては世界でも有数の大人口を抱える都市であったことは間違いありません。(前者の資料は、もしかしたら男女の数を逆に記述?)
 町人よりも多かったといわれる、武家の人数も当然男の方がはるかに多かったはずです。このような事情から、必要悪としての「吉原」を始めとする遊里を容認せざるを得なかったと思われます。
 後者の資料にはその後の人口調査の結果も記されています。それによると約120年後の弘化元年(1844)の人口は町人総数559,497人(男290,861人、女268,636人)となっています。享保9年の調査で男の占める比率は65.2%、弘化元年では52.0%となります。
 この間、江戸の人口は増減を繰り返しながら落ち着き、男女の差も小さくなって来ました。(この項の記述、2002年3月1日)
1713 正徳 3 下谷北部の坂本・金杉・三ノ輪村のうち奥州街道の裏道沿いの地、および浅草北部の今戸・山谷村のうち奥州街道沿いの地と橋場村の一部が江戸市街に編入された
1728 享保 13 浅草寺境内、奥山に桜の木を植える
1732 17 隅田川で行われた水神祭で花火が打ち上げられ、江戸花火発展のきっかけとなる。新吉原で「俄」が年中行事となる
1772 明和 9 江戸大火、伝法院焼失、古文書など多くを失う
1774 3 花川戸の伊右衛門、幕府の許可を得て吾妻橋を架け、橋銭を徴収した
1777 6 火災で焼失していた伝法院再建(この建物は一部が現存している)
1795 寛政 7 雷門を再建
1796 8 芭蕉の句碑「くわんをんのいらか見やりつ花の雲 はせを」造立(弁天山に現存)
1812 文化 9 この頃から浅草田圃の鷲神社の酉の市に人気が出始める
1842 天保 13 天保の改革のひとつとして江戸市中に散在していた歌舞伎座(中村座、市村座、河原崎座)、操り人形の薩摩座、結城座などを現在の浅草六丁目一帯(丹波園部藩主、小出邸の跡地面積やく一万坪)に集め、猿若町と名づけて芝居町とした。
1855 安政 2 安政の大地震、大火、倒壊家屋14000戸、死者7000人、浅草寺は五重の搭の九輪が傾いた程度で、本堂、浅草神社、二天門、雷門などは無事
1860 迷子しらせ石標建立(境内に現存、ただし戦災で台石を残して破壊され再建されたもの)
1865 慶応 田原町からの出火で雷門を焼失
 徳川時代の浅草は江戸で最も繁華な街として栄えた。初詣、七福神めぐり、隅田川畔の花見、花火、三社祭、ほおずき市、もみじ狩り、酉の市など多くは今に受け継がれている。
 歌舞伎をはじめ種々の演芸、見世物、飲食の屋台、楊弓、土産物屋が建ち並び、空き地では大道芸人達が人気を集めていた。しかしながらその周辺は田んぼが広がっていたが、
これは浅草寺と歓楽地を火事から守るための処置で幕末まで続いた。
1872 明治 5 猿若町の守田座が築地新富町へ移転し、猿若三座の一角崩れる
1873 6 上野の山、浅草寺とも東京府設立の五園のひとつに指定される
12月に明治天皇が橋場の三条実美別邸「対鴎荘」に行幸(白鬚橋j西詰のたもとに記念碑あり)
浅草小学校が開校
1878 11 東京府は大区小区制を廃止、15区6郡制を実施、下谷区・浅草区が誕生
1884 17 浅草公園の西側の田圃を埋め立て、新しく興行地を造成。現在の六区地区
1885 18 浅草に花やしき開園
仲見世が煉瓦づくりの2階建てになって開業
新しく造成された興行街には水族館、常盤座、人造富士山などぞくぞくと新しい娯楽施設が建てられ、大繁華街が形成された。
1890 23 凌雲閣(十二階)が完成し新名所となる
1892 25 猿若町の市村座が下谷2丁目へ移転
1903 36 六区の電気館が日本で最初の活動写真常設館になり、無声映画を上映
1904 37 市街電車開通(浅草橋〜雷門、浅草〜上野)
1910 43 関東大水害が下町を襲う、隅田川が決壊して大きな災害となる。被災者を助ける救護所が浅草寺に開設され、その後浅草寺病院となる。
この水害が荒川放水路建設のきっかけとなる。
1912 45 浅草国技館が開業、その後大正12年の関東大震災で崩壊した
1923 大正 12 9月1日関東大震災、浅草区の世帯のうち96パーセントが罹災したと言われ、浅草寺でも念仏堂などが焼失、凌雲閣(十二階)も崩壊
1924 13 現在の仲見世の建物を完成、15棟、148戸、
1927 昭和 2 12月30日浅草、上野間2.2kmに地下鉄開通(東洋初)
駒形橋が完成、他にも震災の復興事業として橋の修理や架け替え、道路網の整備が重点的に行われた。この結果現在の台東区は区の面積に対する道路面積の割合が23パーセントと非常に高い町になっている。
1928 3 1月蔵前橋完成、4月言問橋完成
1929 4 1月厩橋完成
5月、六区の電気館と新宿武蔵野館で日本ではじめてのトーキー映画を上映
1930 5 荒川放水路が完成し、隅田川は岩淵水門から分流となる
1931 6 東武鉄道の業平橋駅から浅草間開通、現在の東武ビル(松屋百貨店)完成
1932 7 仁丹搭が出来た、戦争末期に銅鉄回収に応じて解体し供出した。29年に再建されたが老朽化のため解体された
1933 8 3月17日浅草寺本堂修復
1937 12 国際劇場完成、少女歌劇団の本拠になる。昭和57年に閉鎖され、跡地に現在の浅草ビューホテルを建設
1943 18 戦時体制として、観音堂の本尊を地下3メートルに安置、6区の興行街の一部強制疎開とし、10館が閉館
1945 20 3月10日戦災により浅草寺本堂、仁王門、五重搭を焼失。二天門、伝法院、浅草神社は無事
周辺の家屋もほとんどが焼失したが、松屋百貨店、仲見世、浅草区役所、六区興行街、国際劇場などの鉄筋コンクリートの建物は中は丸焼けながら外形は残っていた。
11月18日
仮本堂が完成(現在の淡島堂)し、落慶供養法会が行われた
1947 22 東京都の23区制を実施、下谷・浅草区を合併して台東区発足
1948 23 4月8日都電雷門線が復旧
三社祭りが復活、この祭りは戦争の為昭和13年から中断されていた。
入谷の朝顔市、両国の花火が復活
1958 33 現在の浅草寺本堂を再建、間口34.5m、奥行き32.7m、高さ28.4m
トロリーバス浅草から池袋まで運転開始、42年で廃止
売春防止法の施行により、吉原の火が消える
1960 35 現在の雷門を再建(95年ぶり)
都営地下鉄浅草線開通、のち京成電鉄、京浜急行と相互に乗り入れ
1964 39 現在の宝蔵門を再建
1965 40 岩淵水門から下流東京湾までを隅田川とする、同時に放水路の方が荒川の本流となる
1968 43 都営地下鉄線浅草、西馬込間運転開始
1971 46 都電南千住、日本橋間など廃止
1973 48 現在の五重搭を再建
1978 53 隅田川で早慶レガッタ、花火大会復活(17年ぶり)
1979 54 10月、大東京祭協賛事業として江戸神輿大会を創設
1980 55 8月23日、第1回台東薪能を開催、雨のため公会堂にて行う
1981 56 第1回サンバカーニバル開催
1983 58 3月23日、浅草寺弁天堂完成
9月3日台東区立リバーサイドスポーツセンター完成
1985 60 4月11日桜橋完成
11月4日完成したビューホテルで下町國際会議開催
1986 61 11月3日九代目団十郎「暫」像が完成
ロックスビル完成
1994 平成 6 本堂西側の整備工事が完了、影向堂の新築、淡島堂、薬師堂、大平和搭などの移築、改修を行い、遺跡なども現在地へ移されたものが多い
2005 17 8月24日 つくばエキスプレス開業
2007 19 5月 浅草寺宝蔵門の屋根瓦をチタンに交換完了
2010 22 1月 浅草寺本堂の根瓦をチタンに交換完了
2011 23 3月11日 東日本大震災 浅草寺五重塔の宝珠一個が落下、九輪の先端が曲がった

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