雷 門
 |
100年間近い間、幻の存在でした。
浅草寺の正面入口、最初の門は平公雅によって浅草寺の総門として942年(天慶5)に建てられた。数度の火災による焼失、再建がなされたが、1635年(寛永12)徳川家光によって建てられた門は右に「風神」左に「雷神」を安置してあるところから正しくは「風雷神門」、略して雷門と呼ばれた。1865年(慶応元)の火災に遭って以来、昭和35年再建されるまで、95年間のあいだ雷門は幻の存在だったことになります。
現在の雷門は鉄筋コンクリート製で、松下電器の松下幸之助氏の寄進で、昔の姿そのままに再建されています。
もっと詳しいページへ |
|
雷神
 |
風神
 |
|
天竜像
|
 |
|
金竜像
|
 |
|
雷門の裏側も見てください
昭和53年の観音像ご示現1350年記念事業として、雷門の風神、雷神の裏側に天竜、金竜の像が安置された。像の制作は平櫛田中(天龍像)・菅原安男両氏
門には「雷門」と書かれた大きな提灯がさがっていますが、江戸時代の終頃に書かれた、資料「名所江戸百景」の雷門には「しん橋」と書かれた提灯が描かれています。現在は本堂の提灯に「しん橋」、宝蔵門の提灯に「小舟町」とそれぞれ寄進者の名が記されています。
川柳のページへ
|
|
宝蔵門
 |
浅草寺の宝物殿
当初は仁王を納めていたところから仁王門と言われ、平安時代の中期から建てられていたと伝えられる。1649年(慶安2)に家光によって、本堂などと共に木造では最後の楼門が建築されました。
昭和20年(1945)の空襲で本堂と共に焼失したが、ニューオータニホテルの大谷米太郎氏の寄進で復興されたのは昭和39(1964年)です。
浅草寺の宝物の収蔵庫になっているため宝蔵門の名前がついています。門全体の大きさは高さ22.7m、間口21m、奥行き8m。
もっと詳しい説明 |
|
宝蔵門の大わらじ
 |
宝蔵門の裏側には仁王様の大わらじ
門の北面の両側に「浅草名物」のひとつ「大わらじ」がかけられています。片方だけの大きさが長さ4.5m、巾1.5m、重さ400kgもある大きなものですが、お参りが済んだ帰り道なのでうっかりすると見落としてしまいます。このわらじは村岡氏の出身地山形県村山市の「奉賛会」から奉納されたもので、現在のわらじは平成10年に新しく奉納されたものです。
宝蔵門に安置されている仁王像は彫刻家村岡久作(右の吽形像)・錦戸新観両氏が大相撲力士をモデルに制作したものです。
川柳のページへ |
|
五重の塔
 |
建物の上に五重の塔が建っている搭院づくり
当初の五重塔は942年(天慶5)に平公雅によって本堂の東南側に建てられたが、何度か火災による焼失の後、1648年(慶安元)徳川家光が再建、これも昭和20(1945)年の戦災で焼失の後、昭和48(1973)年参道を挟んで反対側、本堂の西南に再建された。
地上からの高さ:53.32m(搭の高さ48.32m、うち九輪部分15.07m)。
最上階の五層にはスリランカ伝来の仏舎利が納められている。この仏舎利は日本の関係者の尽力とスリランカ(当時はセイロン)政府及び仏教界の好意により、古都アヌダラプタのイスルムニヤ寺院から贈呈されたものです。
もっと詳しい説明
川柳のページへ |
|
浅草寺本堂
 |
聖観音宗の総本山で、本尊は聖観音菩薩像
江戸市中の多くの寺院の中でも最古の寺で、幕府の庇護とその政策により近隣に歓楽、遊興の街が形成されたことなどから多くの人を集め江戸一番の繁華街となった。長い年月の間には浅草寺が受けた被害も多く、地震、雷、火事による被害は一部分のものを含め先の戦災まで入れると十数度に及ぶ、本堂は三代将軍徳川家光が1649年(慶安2)に再建し、約300年後の昭和20(1945)年の戦災で焼失するまで国宝に指定されていた。左の本堂は昭和33年(1958年)再建されたものです。
もっと詳しい説明のページへ
川柳のページへ |
|
| 下の二枚の絵は本堂正面を入った天井に描かれています。いずれも近代画壇を代表する画家の筆になるもので、雄大な筆致は近代絵画の代表作といえる出来映えである。お参りが済んだらぜひ天井を見上げてください。 |
|
堂本印象画伯による「天人散華」
 |
川端竜子画伯の「龍」
 |
|
二天門
 |
1618年(元和4)建立、国の重要文化財
浅草神社の鳥居の横、寺の東側に建っています。もともとは浅草寺の境内に東照宮が建てられた時に随身門として建てられた門で、周辺の数回にわたる火災や戦災からも免れた貴重な建てものです。明治の神仏分離令のあと門の名前も二天門となりました。昭和32年から増長天(左)・持国天(右)の二天像が安置されています。
現在の雷門や宝蔵門に較べると華麗さには欠けるものの歴史的な重厚さが感じられます。
もっと詳しい説明のページへ
川柳のページへ |
|
| 二天門に安置されている増長天・持国天の像(金網の隙間から撮影) |
増長天
 |
持国天
 |
|
伝法院
 |
浅草寺の総本坊で正しくは伝法心院、住職の居住する本坊の称号に用いられている。現在の建物のうち客殿、表玄関、使者の間、大台所の一部は1777年(安永6)の建造、今から200年以上も前のもので、関東大震災や戦災からも免れた貴重な建てものです。そのうち客殿には本尊阿弥陀如来像が安置されている。一時期上野寛永寺の宮様が浅草御殿として住まわれたので玄関上の瓦には菊の紋章が使用されている。この写真は伝法院の玄関で映画のロケに使われることもある。 |
|
伝法院の庭園
 |
この庭園は江戸時代初期の小堀遠州の作と伝えられる大泉池を中心とする廻遊式庭園で、一般には非公開になっております。賑やかな街の中のやく4000坪の庭園は水辺や多くの樹木が野鳥達の憩いの場所にもなっています。園内には京都表千家の不審庵を模した茶室天佑庵(都重宝)、1387年(至徳4)鋳造の古鐘(都重美)、石棺などもある。この写真は鎮護堂との境から写したものです。 |
|
時の鐘
 |
江戸の市民に時刻を知らせた鐘のひとつ、弁天山「時の鐘」
当時の時刻の区分けは不定時法で、夜明けを明け六つ、日没を暮れ六つとし、この間を等分していたので季節によって昼夜の時間に差が生じ一定ではなかった。それくらい大まかな決め方で用は足りていた訳で当時としては充分役に立っていたようです。
この鐘は1692年(元禄5)に鋳造されたものですが、現在でも午前6時の時報と大晦日の除夜の鐘に使われています。
川柳のページへ |
|
「花の雲 鐘は上野か 浅草か」と芭蕉が詠んだ浅草の鐘、1692年(元禄5)改鋳されたもので五代綱吉の家臣・牧野成貞が黄金200枚を寄進し、鐘の地金の中に鋳込ませたそうです。
昭和20年の戦災で鐘を残して鐘楼は焼失しましたが、翌年には再建され現在に至っています。
江戸時代の時の鐘は上野大仏下、浅草寺、日本橋本石町、本所横川町、芝切通し、市谷八幡、目白不動、赤阪円通寺、四谷天竜寺の九ヶ所に置かれていました。江戸の時の鐘は幕府が管理し、鐘撞き男が各所に4人ずつ配置され、鐘の聞こえる範囲の各町から月額何文かの鐘役銭を集金してその管理費用に当てていました。
この鐘は朝の6時、上野の鐘は朝夕の6時と正午に現在も撞かれています。最初の時の鐘として設置された石町の鐘は小伝馬町十恩公園には復元されています。
|
|
浅草神社鳥居
 |
本殿、幣殿、拝殿とも国指定の重要文化財
浅草寺本堂の東側にあり、浅草寺の本尊を発見した檜前浜成・竹成の兄弟と土師仲知の3人を祭神としたのが浅草神社です。三神を祀ることから三社樣とも呼ばれています。現在の社殿は1649年(慶安2)家光によって再建されたもので、江戸時代初期の建築物が残っている貴重なものです。平成6年、31年振りの大修理に取りかかり同8年に完了。
三社祭は浅草神社の祭礼で5月中旬の土日にかけて3日間行われ、100基あまりの神輿が繰り出し浅草は祭一色となり、神社拝殿では「びんざさら舞」が奉納されます。
浅草神社をもっと詳しく |
|
浅草神社本殿

|
今では東京の初夏を飾る三社祭ですが、江戸時代には毎年行われた訳ではないようです。資料「江戸浅草を語る」によると、主には経費の問題が大きくて一年おきの開催でしたが、1823年(文政6)には実に42年ぶりに復興する話が載っています。それでも町内の話が合わずコースが変則になったり、寄付金のことで大店の主人の器量の大小が問われたりで大変だったようです。いざ、開催となれば他の町に負けるなと派手になり、結局17番の山車とそれぞれのこしらえものが出て総勢3000人ものパレードだったそうです。 |
|
ご神木「槐の木」と本殿
 |
「えんじゅ」と読みます。この木は中国が原産の豆科の樹木で、中国では古来より高貴の木として珍重されてきました。夏には黄白色の花が咲きます。川から出現した観音菩薩像が最初この木の切り株に安置されたことから浅草神社の神木とされ、古くなった木が枯れても境内に自生してくる若木によって受け継がれ絶えることが無いそうです。昭和20年の空襲で当時のご神木は焼けてしまいましたが、言い伝えの通りに自生してきて育ったものです。 |
|
被官稲荷
 |
浅草神社の裏側にあり、新門辰五郎が妻女の病気快癒を京都の伏見稲荷に祈願し、そのお礼として1855年(安政2)に建立したものです。社前の石の鳥居や灯篭に「新門」と彫られています。辰五郎は町火消し「を組」の頭領で火消しとしての仕事ぶりや組どうしでの数々の争いごとの仲裁などで名を上げました。また、十五代将軍徳川慶喜や勝海舟などにも愛され、平成10年のNHK大河ドラマ「徳川慶喜」にその働きが堺正章の配役で紹介されましたので記憶されている方も多いと思います。 |
|
被官稲荷覆屋内
 |
稲荷の屋根は創建当時のままの杉皮で葺かれ、間口約1.5m、奥行き約1.4mと小さな社ですが、大正時代に作られたといわれる覆屋に保護されています。この稲荷はその名前から当時の仕官を願う浪人者が多く参詣するようになり、今日でも商売繁盛を願う人たちに混じって、就職を祈願する人たちにも参詣されているそうです。 |
|
|