
種子島Sea−Mail
私のふるさと種子島の歴史を、いくつかの参考資料をもとにまとめてみました。
種子島の歴史にも興味を持っていただければ嬉しいです。
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1.種子島家譜
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第14代島主「時尭」像 |
種子島の初代島主、信基(のぶもと=平清盛の曾孫)が鎌倉時代の頃に種子、屋久、永良部等12島の領主となって以来、27代「守時」の慶治24年(1891)の次期まで約700年間の種子島家の記録である。
種子島の政治、経済、法制、宗教、年中行事、島内の諸事実のほか、鹿児島や大阪などとの対外関係、外国との交渉など、を物語る貴重な史料となっている。残念ながら、戦災や火災で大部分が失われてしまったが、家譜復元委員会が設置され、いくつかの写体や、鮫島宗美氏が漢文体を仮名混じりに書き下ろした原稿から復元された。
家譜の編修は、延宝(えんぽう)元年(1673)、18代島主「久時」が、上妻隆直(こうづまたかなお)に命じて、初代「信基」から18代「久時」までを編修したものが第1次で、明和(めいわ)6年(1769)21代「久芳」が平山顕友(ひらやまともあき)に命じたのが第2次、寛政(かんせい)10年(1798年)、22代「久照」が上妻宗恒らに改修、続修を命じたのが第3次である。
現在「種子島家譜」と言われるのは、この第3次編修とこれに続くものを言う。「種子島正統系図」(御家年中行事)他とともに「種子島文書」として、県の文化財に指定され、種子島開発総合センターに保管されている。
※ 参考:(種子島の人、種子島家譜について)

刀鍛冶「八板金兵衛清定」像
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天文12年(1543)8月25日、1隻の異国船が種子島の南端「門倉岬」(かどくらみさき)に漂着した。この船には、たまたま3人のポルトガル人が乗っており、16歳の14代島主「時尭」は、彼らの持っていた奇妙な筒状の鉄棒に心引かれた。これがいわゆる鉄砲で、その威力は弓矢の比でなく、すばらしい武器であった。
鉄砲2挺を2千両(今の2億円くらい)で買い取った「時尭」は、入手するや直ちに、刀鍛冶「八板金兵衛清定」に本体の模造を、笹川小四郎秀重に火薬の製法を命じた。彼らの非凡な技術と努力によって、短期間に国産化に成功。これがわが国の国産第1号の鉄砲となった。
鉄砲は、種子島から紀州の根来や泉州堺に伝わり、近江の国友などでも大量に生産され、全国に広まっていった。慶弔(けいちょう)11年(1606)、16代島主「久時」は、父「時尭」の功績を構成に伝えるため、薩摩の儒僧南浦文之(じゅそうなんぽぶんし)に依頼し、「鉄砲記」を残した。これは鉄砲伝来のことを記録した唯一のものである。種子島開発総合センターには、ポルトガル伝来の火縄銃(県指定文化財)と、八板金兵衛清定作と伝えられる国産第1号の火縄銃(市指定文化財)が展示されている。
※ 参考:(種子島・鉄砲 鉄砲伝来考・種子島の人)
確か「鉄砲伝来紀」という映画が以前作られたと聞いていたのですが、色々調べた結果、やはりありました。あらすじをご紹介します。今後のふるさと歴史シリーズの参考のために…。

海音寺潮五郎筆跡の歌碑
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若狭姫の墓
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天文12年8月25日の朝、種子島近海を烈しく襲った台風のために、1隻の大船が種子島西之の浜に漂着。種子島時尭は早速黒人を館に招き、明の五峰(ごほう)と漢文の筆談を交え、ポルトガル船船長ピントと語り合った。
その時、彼が疲労した鉄の棒が、轟然と火を吐き、遠くの石灯籠を撃ち砕いたのには、武勇で鳴る時尭も唖然とするのみであった。
金百両で時尭はこれを買うとすぐ、刀工の八板金兵衛に模造を命じた。金兵衛は弟子の作次と共に鉄砲造りに邁進したが、二度、三度失敗し、筒元が破裂して重傷を負った。加えて大切な預かりものの鉄砲まで盗まれてしまった。
絶望に暮れる金兵衛は切腹をはかったが、娘若狭の発見が早く一命と取り止めた。父思いの若狭はピントを訪ねた。堺の貿易商橘屋又三郎から彼がもう1挺持っていると聞いたからだ。ピントは若狭の熱意にほだされて、護身用の鉄砲を貸し与え、金兵衛の怪我の手術までした。
若狭はこの何番人のやさしい思いやりに感動し、二人の心は急速に近づいて行った。全快した金兵衛はピント、若狭の厚意に見守られ、幾多の困難を克服した。やがて、御前試射の日が来たが、その日はピント帰国の日でもあった。今は彼の子を身ごもっている若狭もポルトガルへ渡ろうとしたが、金兵衛の頑固な反対に全てを諦めた。金兵衛はさらに若狭の友達、お種に因果を含ませ、胎児をも始末しようと薬を盛ったが、若狭のピントを想う心情に打たれ、それだけは認めざるを得なかった。
やがて金兵衛は、織田信長に招かれ堺に出、又三郎の世話で刀工たちにちに鉄砲造りの技術を伝えた。そんなある日、向上が爆発し焼け跡から昔盗まれた鉄砲が出てきた。又三郎の正体を知った金兵衛は故郷に帰った。
翌年春、若狭を迎えるために再びピントがやってきた。だが、彼を待っていたのは息子若海をかばい崖へ落ちて死んだ若狭の遺骸だった。ピントは悲しみに泣きぬれ、「この上は若海を」と申し出た。身を刻まれる思い出その言葉を聞いた金兵衛は静かにうなずいた。それから数日後、はるか水平線のかなたに船影が没したあとも、動こうともしない老人の姿があった。
栖林神社のすぐ北隣は弓場(いば)、そのまた北隣は、種子島家代々の霊が眠る墓地になっている。この墓場を「オハートー」と言う。お牌塔ともお排塔とも書く。オハートーの東隣には種子島家の菩提寺(ぼだいじ)・吉祥山本願寺(きっしょうざんほんがんじ)がある。文明元年(1469)第11代島主種子島時氏が建立。京都の本願寺、尼崎の本興寺の末寺で法華宗の寺である。慈遠寺(じおんじ)、大会寺(だいえじ)、とともに(赤尾木3ケ寺)の一つと言われ、7つの堂を備えた広壮なものであった。山門は以前の警察署の前にあったという。もとは、現在の市役所の地にあったが、14代「時尭」が、現在の地坂上(さかのうえ)に移した。
本源時では、毎年正月11日の夕刻、栖林神社弓場の「大的始式」と時を同じくして、温座祈念」の行事が始められる。夕方6時から13日朝まで、夜通しで陀羅尼品(だらにぼん)1000巻を読み、座を温めることから来たものである。「読み明かし」とも言う。
昔は全島の僧が会し、多くの檀徒を集め、国土安穏、五穀豊穣、漁業豊漁を祈願した。現在も殆ど古式のまま受け継がれている。これは、全国的に例をみない祈祷会で、法華の烈しい行や加持祈祷(かじきとう)の性格を温厚な種子島の風土にうまく調和させた行事である。この祈祷で鍛えられた種子島の僧の読経(どくきょう)は、独特な調子、高まりを持ち、薩摩流(実は種子島流)と言われるほどの力強さを持つ。一説には、16代島主「久時」が豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、島津軍に従軍した時始まったと言われれる。
西之表市の指定文化財になっている本源時境内には、種子島に法華宗を伝えた「日典上人」(にってんしょうにん)の遺志を継いで、法華宗弘法(こうぼう)に努めた淡路島出身の僧、「日良上人」の墓や日経、日皓(にっこう)などの僧の供養碑郡が並んでいる。
なお、本願寺は日良の開山によるものである。
※ 参考:(タネガシマ風物詩)
第9代島主「久基」を祭神とし、文久3年(1863)松寿院(23代島主久道婦夫人)が遺徳と偲んで建立した。栖林神社呼称は、久基の晩年の号(栖林)に由来する。久基(1664〜1741)は、長い間薩摩藩の家老職を務め藩政を指揮すると共に、種子島においては、殖産興業(甘藷、はぜ、製塩、製鉄、植林)に尽力した。なかでも元禄11年((1698)琉球国より甘藷を移入し、栽培普及させた功績は大きい。栖林神社をカライモ神社という由縁である。産業振興に積極的に取り組んだと同時に質素倹約を督励し、家政再建を進めて借財は全部返還された。また、学問も大いに奨励した。現在も榕城小学校の校歌に、「智の栖林」と歌われ、島では「栖林さま」と呼ばれ親しまれている。
※ 参考:(種子島の人、種子島の史跡、種子島の社寺、民間信仰神)
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