弁証法と自己言及(1)

大黒正伸

 
1. 弁証法
 岩崎武雄は弁証法に関する論考で、存在の弁証法と認識の弁証法、そして自覚の弁証法を区分した。彼にとって、弁証法は決して存在の矛盾や発展の論理ではなかった。存在は認識とは截然と区別され、存在には矛盾が起こり得ないとした。ここで言う矛盾とは、まさに矛盾律でいうところの矛盾であり、対立や闘争とは区別される。矛盾が矛盾律でいう矛盾、すなわち「同一の関係と同一の時において存在しかつ存在しない」というものであるとすると、運動や発展は矛盾ではない。マルクス主義で言うところの「ブルジョワジーとプロレタリアート」の「矛盾」は実は対立であり、「生産力と生産関係」の「矛盾」は実は不適合である。矛盾とは、同一主語に対する相反する述語でなければならない。生物の成長も、歴史の発展も、エンゲルスの言うような「矛盾」などではない。それはどの一瞬においても自己であると同時に自己ではないものという性質を持つとされるが、これのどこが矛盾であろうかと岩崎は問いかける。これがまさに矛盾律の矛盾であるとするなら、物質の運動を矛盾としたエレアのゼノンと同じ論理である。運動は一瞬一瞬においてそこにある(有)とともにあらぬ(無)ものと言える。しかし、これは、運動を抽象的な「有」と「無」に分割し、図式化したものにすぎない。運動は運動として把握されるべきである。そこに矛盾律を破るものなど存在しない。
 岩崎は存在の本質に「矛盾」を見る弁証法を存在の弁証法と呼び、これを徹底的に糾弾した。一方、弁証法は認識においては明白に存在し、それどころか認識という人間の精神作用において本質的な位置を占めるものと考えた。認識においては、矛盾が起こりうる。人間は同一の命題を主張するとともにその命題と相反する命題を主張することもできる。同一主語に対する相反する述語と言い換えてもよい。ただ、岩崎の問題にする矛盾はこうした矛盾でもない。それは人間の認識作用に対するカント的な洞察に則っている。認識はつねになにものかについての認識であって、それはつねに存在に対する不完全な命題にとどまる。ここには、人間が有限な存在であって、神のように一挙に存在の全体と本質とを把握できないという前提がある。認識は一歩一歩進むしかない。その歩みは、同一物に対する判断の矛盾の克服である。つまり、ある対象Xについての命題Aがすでに存在し、それに対して別の命題Bが提起されたとする。この命題AとBの「内容」が相反するものであるから矛盾なのではない。異なった命題が提起されるということが矛盾なのである。なぜなら、岩崎の言う認識の弁証法における矛盾は、判断の内容ではなく、その判断を採用すると同時に採用しないという形での矛盾、すなわち判断提出の形式に関わる矛盾であるからである。してみると、認識の弁証法は、何ら神秘的な、また特殊な論理ではなく、きわめて常識的な人間の認識の発展であると言える。判断内容や命題の内容が矛盾するのではなく、単に異なった判断や命題が存在することを矛盾とするなら、認識におけるあらゆる変化が弁証法ということになってしまう。ただ、岩崎は、矛盾の存在でとどまっていることを弁証法とは言わない。矛盾を克服することをもって弁証法と言うのである。それは、まさに不完全な認識からより完全な認識へという発展、つまり「進歩」を表している。岩崎の言う弁証法とは、矛盾律を否定した「矛盾の論理」では決してなく、矛盾律に則った「矛盾克服の論理」である。
 こうした岩崎の弁証法に対する考察には、いわば認識論優位の態度が伺われる。ただ、彼は人間の実践においても洞察を加え、自覚の弁証法を論じている。存在における「矛盾」や弁証法を認めなかった岩崎であるが、だからといって人間の関わる事実において現状を無批判に容認するような態度をよしとしたわけではない。いや、むしろ逆に、存在は変化と対立に満ちているのであって、社会や歴史は特にそうである。彼は矛盾と対立ないし闘争を厳格に区別しようとしたのであって、日常的に言われる意味での「理想と現実の矛盾」といった事態を否定したわけではない。SeinとSollenは必ずしも一致しない。ここでも論理の構造は認識の弁証法と同一である。矛盾は克服されねばならない。ただ、自覚の弁証法とは、自己を含む弁証法である。認識の弁証法は、自己が深く世界と自己の関係を自覚するにつれて、自覚の弁証法へと発展するべきとされた。認識の弁証法の場合、認識の目的が存在の真理の解明であるかぎり、それは「存在の論理」に重点がある。存在の側の論理を発見することこそが認識の仕事であると考えられているからである。しかし、この場合、人間が世界に含まれ、世界に関わる有限な存在である限り、人間精神の活動が単なる存在の論理の解明だけに終わることはできないはずである。真理とは人間の外にあるべきと考えるなら、認識の弁証法にとどまってもよいだろう。だが、そうではない。人間の求める真理には、実践の真理も存在する。自覚の弁証法とは、世界における人間存在の自覚が深まる過程である。
 岩崎は、キェルケゴールによるヘーゲル批判を引用する形で自覚の弁証法を概述する。ヘーゲルの議論は認識の弁証法として読むことが可能であり、その方がヘーゲルの論理は有益であると岩崎は主張する。ただ、ヘーゲルが難解なだけでなく悪しき論理の代表のごとく非難されてきた原因は、彼が絶対者の論理として弁証法を考えたことに原因がある。キェルケゴールによる批判の中心もまた、この点にある。彼はヘーゲルの弁証法を「量的弁証法」と呼び、「あれもこれも」の論理とした。それに対して、自らの弁証法を「質的弁証法」と呼び、「あれかこれか」をその特徴とした。ヘーゲルは人間の有限な性格を徹底して考察せず、絶対者の視点で矛盾を統一しようとした。そこには量的な連続性だけが強調され、質的な差違はまったく問題にされない。なぜなら、ヘーゲルの弁証法においては、人間の自由な決断が何ら積極的な位置を占めず、この決断こそ質的な差違を生み出すからである。ヘーゲルの弁証法では統一に重点がある結果、「あれもこれも」という性格が付与される。キェルケゴールは主体による決断が「あれかこれか」という厳しい質的飛躍をもたらすものであることを強調し、弁証法の重点を統一ではなく、否定に置いた。
 しかし、キェルケゴールは人間の有限性と主体的決断を強調しながら、彼自身もまた絶対者の立場を前提にしていたと言える。彼の言う宗教的実存は、絶対者と有限なる自己との絶対的区別に由来する「矛盾」を保持せざるをえない。岩崎は、このことのゆえに、キェルケゴールが矛盾の前に立ち止まってしまい、皮肉なことにヘーゲルと同じく存在の弁証法に近づいてしまったと主張した。それは、キェルケゴールがキリスト教の信仰を前提として実存を考察した結果である。岩崎は、弁証法が哲学の方法である所以を、人間の有限性に求めている。絶対者は弁証法の論理では扱うべからずというのが、岩崎の結論の一部を構成している。
 岩崎の論議には、カントの「弁証論」の影響が見て取れるだろう。しかし、岩崎の主張するところとは違って、ヘーゲルが実践の弁証法を準備し、それがマルクスらに受け継がれたと一般に考えられてはいないだろうか。特に、マルクス主義は、自らのうちにあるそうしたヘーゲルの遺産を強調している。「理性的なるもの」と「現実的なるもの」との関係如何で、ヘーゲルは保守的にも革新的にもなりうる。しかし、やはりヘーゲルの弁証法は絶対者のそれであって、それが「転倒」されようと変わりはない。岩崎は、その独断を忌避したのである。
 いずれにせよ、マルクス主義の議論はあくまで存在の側に矛盾を見ている。三浦つとむは、一般向けに書かれたとはいえもはや古典となった著作において、ヘーゲルの言う矛盾を客観的な存在の有様として考える。彼は、ある時にはヘーゲルを、ある時にはエンゲルスを、そしてある時には毛沢東やレーニンを、自在に引用しながら唯物論的弁証法の科学性を主張する。一般向けの新書ということで具体的な例は豊富で、文章も平易である。しかし、そうでありながら、三浦の論述は概念の内容説明を「はしょって」進められるので、独断的な印象を与える。彼の議論は、岩崎とは相容れない矛盾概念を前提にしている。彼はヘーゲルのゼノン評価を引用し、運動が矛盾であること、生命が矛盾をはらむことを主張する。エンゲルスを引用する三浦は、生物がいかなる瞬間にも自己とそれ以外のものを同時にはらむとしている。エンゲルスの表現はいささか比喩的で文学的であるが、近年議論されている「アポトーシス」の観念に通じるものがあり、それ自体は興味深い議論を含んでいる。ただ、これを矛盾と呼ぶかどうかは別の問題である。対立する項目が同時に存在する(少なくともそう見える)場合、我々はまず、それが同一のものに内在する矛盾かどうかを尋ねばならない。或る項目の「直接的」属性と言われるとき、それはどのような視点から見てのことなのかも検討しなければならない。三浦の言う父と子の「矛盾」は、そうした基本的な検討作業を省略した「比喩的」表現である。いったい、或る人物が父であると同時に子でもあるということのどこが矛盾なのだろうか。それらは親族関係の一方から見た間柄の名称にすぎない。A氏は、その子から見れば父であり、その親から見れば子である。そもそも父と子は対立する事態ではない。A氏をX氏の父であると同時に子であると言う場合には、矛盾である。X氏の父であると同時にY氏の子であるというのは、ただちに矛盾にはならない。三浦は、ヘーゲルを引用する。「上とは下にあらざるものである。上という規定は、ただ下でないということにのみ存在する。」「関係の諸規定においては矛盾は直接に現れる。」ヘーゲルの述べることは正しい。同一の項目について或る規定を為すときは、必ず対立する規定を内在させる。「彼は正直だ。正直とは正直でないものではないものだ。」しかし、規定とはだれにとっての規定なのか。宇宙空間では上も下も判別できない。私の頭のある方が下だという人がすぐ隣にいたりする。もちろん、宇宙空間の無重力を知らなかっただろうヘーゲルも、そのようなことは承知しているだろう。問題は、こうした抽象的な規定(とその対抗規定)を仰々しく「矛盾」という用語で権威づけることの愚かしさである。主語を特定しないで抽象的に規定された性質が独り歩きしはじめる。「矛盾」を不当に拡大して扱うことは、岩崎の言う存在の弁証法の決まり手である。
 「或る自己が自己において自己と矛盾する。」このなにやら高級な命題のように語られる存在の弁証法の「矛盾」ドグマは、「自己」とは何かが解明されたとたんに正体を現す。或る具体的な生命体が「自己」であり、その成長なり死なりが「弁証法的」にとらえられるという場合、矛盾は生命体全体における矛盾ということになるだろう。生命体は生きていると同時に死んでもいる。刻々と細胞は入れ替わり、すっかり新しいものに変わってしまったはずなのに、同一の生命体であり続けている。エンゲルスが言うところも同じである。しかし、生と言い死と言っても、それらは人間が規定した概念である。同一の生命体として観察しているのは人間観察者である。それが「同一」であるとするのは、人間の勝手である。或る細胞は死ぬ。それは矛盾では決してない。新たな細胞が生まれる。それも決して矛盾ではない。私は歩いている。午前7時に家の前にいた私は、午前7時20分にはいない。これは矛盾であろうはずがない。死、生、有、無、これらを矛盾する概念として規定するのは間違っていない。ただ、それを当てはめる仕方が問題なのである。
 もちろん、言葉の選択の問題にあまり長く関わっているのは得策ではない。転倒したヘーゲル主義者たちの洞察も、決してすべてが間違っているわけでも無益なわけでもない。岩崎の弁証法観が完全無欠なわけでもないのだ。岩崎は認識の弁証法とその(まさに弁証法的に)深化した自覚の弁証法を真実可能な弁証法として提起した。存在の弁証法は事実と言葉の混同に基づく誤った推論であった。しかし、マルクス派たちの洞察、またそこまでいかなくとも「直観」や「表現」は魅力に満ちてもいる。どうしてか。彼らが扱ったのは、存在であると同時に思惟でもある人間だったからである。そして、何より、社会を営んでいるのは認識の弁証法と自覚の弁証法を「実践」する人間だからである。「これまでの唯物論....の主な欠陥は、対象・現実・感性が....人間的感性的な活動としては把握されず、主体的に把握されないでいることである。(....は途中略)」(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』)岩崎の批判にもかかわらず、少なくとも若きマルクスは人間の主体性を強調していた。社会は、抽象的な概念であるが、同時に抽象的な存在でもある。法や貨幣や宗教が、具体的であると同時に抽象的でもあるのは、人間がそうしたものとして考案し、実践し、経験しているからである。岩崎の議論にはこの点が抜け落ちている。マルクスとその後継者たちが受け継いだ弁証法は、自覚の弁証法を実践する「社会的存在」の弁証法であった。少なくとも、ドグマから自由であろうとすれば、そうした可能性が生まれてくるであろう思想を、西欧のマルクス派は抱いていた。党派がそれを握りつぶしてきたのである。しかし、絶対者を転倒させただけのヘーゲル主義は、無自覚なドグマとして存在の弁証法を生み出してきた。我々は、今一度、人間の有限性に立ち帰って、岩崎の言う「試行錯誤」としての弁証法を実践する必要がある。
(この稿続く)


<参照した文献>

岩崎武雄『弁証法--その批判と展開--』、
 東京大学出版会、1967(1954)年。
三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』、
 講談社現代新書、1973(1968)年。
イマヌエル・カント(篠田英雄/訳)『純粋理性批判』(上・中・下)、
 岩波書店(岩波文庫)、1961〜1962年。
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリートリヒ・ヘーゲル(長谷川宏/訳)『精神現象学』、
 作品社、1998年。
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリートリヒ・ヘーゲル(寺沢恒信/訳)『大論理学』(1・2・3)、
 以文社、1977、1983、1999年。
カール・ハインリヒ・マルクス(城塚登、田中吉六/訳)『経済学・哲学草稿』
 岩波書店(岩波文庫)、1964年。
カール・ハインリヒ・マルクス、フリートリヒ・エンゲルス(古在由重/訳)『ドイツ・イデオロギー』、
 岩波書店(岩波文庫)、1956年。
フリートリヒ・エンゲルス(加藤正、加古祐二郎/共訳)『自然の弁証法』(上・下)、
 岩波書店(岩波文庫)、1931、1932年。
 

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