2.チベット編を送ります  (2002年1月2日)




                (チベット仏教都市)


              (ラサで出会った仲間たち)


謹賀新年
明けましておめでとうございます。

10月から3週間かけてチベット高原を縦断しました。その体験記をお送りします。
今回、チベット高原がいかに広く、険しく、寒いところであり、ここを陸路で移動す
ることがどんなに大変なことかがよく分かりました。

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日本を出発して1ヶ月が過ぎ、今回の旅の第一のハイライト、チベットに入った。
(ちなみに第二以下のハイライトは南インド、オマーン北部、アフリカ南部、ケイマ
ン諸島、南極大陸、インカ遺跡、ギリシャ諸島、アルメニア周辺、キルギス周辺、中
国パキスタン国境と続く予定。)

●チベット高原とは
チベット高原はそのほとんどが標高4500mを越える世界最大・最高の高原地帯。高い
ところが好きな僕は昔から憧れていた。

チベットは中国国内でも入境が厳しく制限されているところで、そこに入る方法は外
国人には2つしか許されていない。
@東の成都(四川省)から飛行機(37,000円)で直接ラサに入る方法(所要2時間)
 
A北のゴルムドというところからバス(31,000円)で入る方法(所要30時間)

今回の旅のポリシー(できるだけ飛行機を使わず、陸路で移動することによって地域
の連続性を見る)に従い、僕は迷わずAを選択した。平均高度4000mを超える、長さ
1200kmもの殺伐としたルートだ。


[チベット入境 (10/2-4)]
チベット高原への北の玄関口”ゴルムド”で、西寧(シーニン)発の寝台列車を降り
た僕は、すぐにチベット行きの手続きのできる旅行代理店に向かった。外国人は最低
7人集まらないとチベットには入れない仕組みで、運良くその場で人数が揃い、翌日
にはチベットに向けて出発できる事になった。

ゴルムドを出発してからの景色は確かに凄いものがあった。切り立った岩山を縫うよ
うに続く一本道を進んで行くと、断崖に挟まれた幅数百メートルもある枯れ川(ワ
ジ)が目の前に現れる。植物も生えているが、高度が上がるにしたがって生き物は姿
を見せなくなる。4000mを越えると”ツンドラ”といって茶色の荒れ地に苔と水溜ま
り以外は何もない死の大地が広がる。ツンドラは地理の授業で習ったが見たのは初め
てだ。

しばらく行くと、10月に入ったばかりというのに雪が舞い出し、氷河が道路の側まで
迫っている。ズボン2着に靴下2枚、セーターやダウンジャケットなど登山用上着を
6枚も着込み、手には軍手、首には防寒対策に手ぬぐいや”風呂敷き”まで巻きつけ
てバスに乗り込んだのだが、それでも寒い。外はもちろん氷点下だ。

そして何よりもつらいのが高山病だ。このルートで高山病を避けられる人は、現地人
を除いてほとんどいないらしい。症状は頭痛が主で、寒気もあり意識が朦朧としてく
る。以下のような具合だ。

○標高2800m(ゴルムド) 青空が広がり景色もきれいで気分もルンルン。「険しい
けど、きれいな山だなぁ−」

○標高4000m 空気が薄く感じ、少し息苦しい。「あれ、なんか身体がつらくなって
きた!」

○標高4500m 体をちょっと動かすだけで息がきれる。頭が重い。1m標高が増すご
とに頭が「キュッキュッ」と両側から締め付けられるような感じがする。「えっ、ま
だ上に行くのぉ〜?そろそろ勘弁してっ!」

○標高5200m 意識は朦朧、頭はズキズキ。鼻血も出てくる。
「もう景色なんて見たくない!どうでもいいから、とにかく早く峠を越えてくれぇ
−!」

この後頭痛がジンジンと15時間くらい続く。外の景色を見ても、この先に人がすんで
る場所があるようには思えない。時間が過ぎることをただひたすら願い、気が遠くな
り、朦朧とした状態でいつのまにか眠りにつく。長い時間の後、目を覚ますと、夢の
ごとく街灯のついた舗装道路が現れ、50mおきにペプシの看板が並んでいる。そこが
チベットの都ラサだった。もう全身くたくたで、バスを降りてすぐ宿に倒れ込んだ。
 

●寝台バス
今回初めて寝台バスというものに乗った。その実態は「走る棺桶」だ。中国の辺境地
では結構見かけるタイプで、昼夜を徹してひたすら走るためのものだ。5日間も食事
休憩だけで走り続けるものもあるらしい。内部には鉄パイプでできた小型の二段ベッ
ドが2列、縦に5台並んでおり、一つのベッドには二人が並んで横になる(僕はチ
ベット人の青年と一緒のベッドだった)。とても狭く、寝返りも打てない。短いので
足も伸ばせない。この状態での辛抱が30時間以上も続く。体を動かせない二日間の絶
対安静状態が、いかに辛いものであるかがよく分かる。ラサに着いた時には”床擦
れ”になっていた。バスは満員状態で、あらためて「バスとは人という名の”モノ”
を”輸送”するもの」であることを実感した。

●辛く苦しい33時間を経てたどり着いた「ラサ(チベット語で”神の土地”)」は、
うずたかく天に近いところにある”ほっ”とできる場所だった。日本の田舎の小都市
という感じで、食べ物も中華・洋食はもちろん日本食まであり、食事も楽しめる。そ
れまでの数日間とは全く別の生活をしばらく楽しんだ。

飛行機で飛ぶとこの満足感は得られないだろう。


[チベットは中国ではかなり異質な場所でした (10/7)]
ツアーという形式でラサに到着したため、3日間の市内観光がついていた。その時に
女性のチベット人のガイドが随行した。中国人もそうだが、チベット人は(更に)年
齢よりも若く見える。その女性ガイドも18歳というが見た目は中学生のようでとても
可愛らしい。

しかし話を聞いてみると彼女の半生は既に波乱に富んでいた。物心ついたときにダラ
イラマに憧れ、彼の亡命しているインドへ行って生活した。ダライラマにも毎週会っ
ていたそうだ。

ところが数年後、両親のいるラサに戻ると、突如公安が押しかけてきて(中国ではチ
ベット独立運動の象徴であるダライラマ信仰は禁止されている)、「インドで何をし
てきたんだ!何を見てきたんだ!」と追求されて警察へ連行。その後6ヶ月間も刑務
所に収容されていたそうだ(彼女はどう見ても反体制運動家には見えない)。両親とも
会えず、毎晩淋しくて泣いていたと言っていた。

これはほんの一例で、チベットは投獄されている政治犯の数は世界有数といわれてお
り、漢民族への反発は強い。(我々はChineseというと中国に住んでいる人たち全て
を想像しがちだが、チベット人たちは漢民族のことだけををChiniseと呼んで一線を
画している。)ラサは区都で中国語が通じるため言葉の面では助かったが、郊外やチ
ベット人の多いところへ行くとチベット語のみで中国語が通じない事もよくある(亡
命経験者が多いため、中国語よりも英語の方が通じる場合も多い。中国語を話すと反
感を持たれたり、無視されたりするので英語で話し掛けるべきとガイドブックにも書
いてある。)

チベット自治区は中国の中では確かに異色な存在である。風景や人などを見てもいわ
ゆる中国という印象からはかけ離れた地域で、同じ国であるのが不思議な気がする。
実際そのために独立すべきだと考えている人達も多いらしい。しかし、ここは経済的
にはとても貧しい地域で、99年の統計では中国全体に比べ、面積は8分の1、農業生
産額では500分の1、工業生産額では5000分の1となっている。資源も少ないことか
ら、国内での経済的な重要性は非常に小さい。軍事的な重要度が高いだけだ。従って
もし独立しても既存の農業・工業では生活が苦しいので、隣国ネパールのような観光
立国になることが望ましいだろう。

しかし、日本の3倍以上の面積に400万人しか住民はおらず、はるかに国土の小さ
いネパールの5分の1程度の人口しかない。経済と人口の規模から考えると、中国政
府のもとにとどまり、政府の(広義の)補助を受け続けた方が現実的であろう。


[チベット仏教は意外に現実的な宗教でした(10/8)]
チベットといえばチベット仏教である。遠路はるばる五体投地で聖地に向かうなど、
宗教に一生を捧げる敬謙な信徒が多いというのが、チベットに来る前のイメージで
あった。しかしラサに来て正直幻滅した。

ラサはチベット仏教の信徒が本当に多く、道行く人の4人に一人は巡礼者のようだ。
街角には袈裟(御坊さんが身に纏う赤い布)を纏った子どもや大人があちこちを歩い
ている。しかし彼らは「お金、お金」と乞食同然に通行人に手を差し出してくるので
ある。このような乞食信徒は地方からの巡礼者という話だが、ただの乞食と違うので
戸惑ってしまう。

お寺に入っても”お金、お金”である。入場料や撮影料(なんと部屋毎に設定)だけ
でなく、仏像にはペタペタと人民元札がはってあり、お金が信仰の象徴であるかのご
とく信者は寺内のあちこちにお札を投げている。このように現代のチベット仏教はど
うやらお金とは切っても切れない存在らしい。

また、マニ車と呼ばれる小道具がチベット仏教の特徴だが、これは手元の円盤を一回
まわせばお経を一回読んだことになるという、とっても”効率的”な小道具である。
手で回すのはまだよいが、寺には水車に連動して回しているものもあっておもしろ
い。そのうち将来は、電池式のものや電気で24時間まわる自動マニ車なるものも現
れるのではなかろうか?ここではお経を読むことの意味を考えさせられた。

以上のようにチベット仏教はとても現実的(?)な宗教であることが判明した。


***ヒマラヤ越え(10/16-19)***
[ヒマラヤ山脈を越えるのも結構大変です]
ラサでの滞在日数は10日間を越えた。これは次なる目的地ネパールまでの交通手段
を手配するためだ。中国・ネパール間は公共交通機関はほとんどない。住民がほとん
どいないため、人の往来がないからだ。だからラサからネパールを目指す旅行者はこ
こで乗り物(4WD車)をチャーターすることになる。両国間に広がるヒマラヤ山脈
の山道を走り抜けられる能力を持つ数少ない車、”ランドクルーザー(トヨタ)”を
チャーターし、5人くらいでシェアするケースが多い。

[ヒマラヤ越えツアーの企画を試みました]
「旅行者同士が集まってグループを作り、自分たちで旅を企画してヒマラヤを越え
る」・・・このプロジェクトに僕はワクワクしていた。ラサに着いてすぐにこの”ツ
アー”の企画に取り掛かったが、予想に反して5人集めるのは難しかった。僕がラサ
に到着する直前に、多くの日本人がまとまってネパールへ抜けていたからだ。

メンバーについては、いろんな人種を混ぜると面白いと最初は考えていたのだが、今
回は日本人に限定してツアーを企画することにした。来るべき厳しい環境の中で、生
活習慣の違う欧米人と4日間も団体生活を送っていくのは難しいと感じたためだ。

それはこの直前、ゴルムドからの寝台バスで一緒だったヨーロッパ人の、我々日本人
から見るととても非常識な行動を経験していたためだ。彼らは標高5000mの異常な世
界(気圧は低く、外は氷点下でバス内も氷点近い)を走っているときでも、「We
need a fresh air!(換気が必要だ!)」と言いながら、(車内の空気が特にこもっ
ているわけではないのに)窓を開けっ放しにしている。バスの中の他の人たちは、寒
さに震え、気圧が下がったせいで(窓を開けると気圧が下がる)高山病にかかり頭痛
で唸っているのにだ。ちょうど僕の後ろの席だったので何度か注意したが、いくら
言っても聞こうとはしなかった。すべての欧米人がこうだとは思わないが、今回のヒ
マラヤの厳しいルートでの価値観の対立やもめごとは出来るだけ避けたかったので、
参加者は日本人に限定することにした。

幸いゴルムドからのバスに同乗していた日本人カップル(北川・古川氏)もカトマン
ズまで同行してくれることになり、あと二人の日本人を集めるだけとなった。

3人でツアー企画会議を開き、どうやって人を集めるかを話し合った。当初3人とも同
じホテルに宿泊していたのだが、別々のホテルに泊まり直し、各自メンバーを勧誘す
ることにした。僕は日本人宿泊客の最も多い(といっても15人程度)”ヤク・ホテ
ル”担当となった。

[ツアー実現への道は厳しかったです]
まず、ホテルで会った日本人全員に声をかけ、宿泊者全員の属性(どんなタイプの人
でどこへ向かおうとしているのか)を調べた。いわゆるマーケットリサーチ、見込み
客調査だ。こんなことをするのは野村証券で営業をやっていたとき以来のことで、仕
事じゃない分だけ少しワクワクする。旅行者相手にスパイ活動をしているみたいでか
なり後ろめたい気もしたが、なんとか全員の分を調べ上げた。しかし、既に別のツ
アーで行くことが決まっている人も多く、見込みのありそうな人たちは見つからな
かった。

数日間、3人でラサじゅうの日本人旅行者を調べ上げたにもかかわらず、いっこうに
メンバーが決定しない現実に、僕は途方に暮れていた。毎日数人の日本人がラサに
入ってくるので、その人たちにも声をかけるが、様子を見ている人も多く、色よい返
事をもらえなかった。「何がダメなのだろうか?」と頭を抱えた。

そこでこんどは広告を作ってみることにした。各ホテルにはそれぞれ掲示板があるの
で、そこに素敵な広告を打てば、旅行者の心を刺激するのではないか?3人でコース
や内容をあれこれ思案し、どういう言葉が旅行者を捉えるかをじっくり検討し、以下
のようなチラシを各ホテルに掲示した。

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「湯けむり 秘境丸かじりツアー」

ルート:ラサ→ヤムドク湖→ラツェで温泉→エベレスト・ベースキャンプ→国境→カ

トマンズ

日程: 10/13〜17に出発 3泊4日

金額: 一人1000元(約1.4万円)前後

定員: 5名(あと二人募集中です)

コンセプト: ランドクルーザーに乗ってヒマラヤの雄大な自然の景色を満喫しなが
ら、時に温泉につかり、時にチベット人との交流も楽しみながら、一緒にネパールを
目指そう!

メンバー:
高畠猛嗣・男・30才(その後、世界一周へ)
北川知希・男・25才(その後、インド−タイ−中国へ)
古田佳子・女・28才(その後インドへ)

連絡先:・・・
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親しみやすいように”ドラえもん”の絵を、イラストの上手なメンバーに書いても
らったりもした。希望者はすぐには決まらなかったが、このチラシは他の旅行者の間
でも話題になり、我々のチームは”ドラえもん”チームと呼ばれるようになった。

結局、数日後にはそれまで迷っていた二人の旅行者が参加したいと言ってくれ、5人
のメンバーは確定し、ほっと胸を撫で下ろすことができた。ラサに着いて5日が経っ
ていた。

[出発までの準備も大変です]
毎晩、戦略会議(ミーティング)を開き、役割分担やルート、契約する代理店などを
決めた。今回のヒマラヤ縦断旅行は、その大変さを考えると、参加者にとって人生最
初で最後のものとなるだろう。だからみんなの一生の思い出になるような企画にしよ
うと思った。そこで考えたのが”役割分担”だった。ただ誘われてツアーに参加する
よりも、それぞれが責任を持って積極的に参加した方が思い出深いものになるのでは
と考えて、情報収集・食料装備・レクリエーションなどをそれぞれのメンバーに担当
してもらうことにした。代理店との交渉・契約書の作成は僕が担当。毎晩のミーティ
ングでそれぞれが課題を与えられ、それを発表しあうスタイルにした。ここまで組織
立ってやっているグループは他になく、ちょっとやりすぎのような気もしたが、より
実りのあるツアーにしたいと思ったので、メンバーに協力してもらった。

次に代理店を決定した。ラサには大きく分けて二つの代理店がある。正規の国営代理
店と”闇”の代理店である。”闇”代理店は価格は3割程度安い(正規代理店の価格
には車代・ドライバー代・ガイド代・許可証代が含まれており、5日間で合計約8万
円)。しかし、外国人の自由旅行が制限されているチベットの移動時に必要な通行許
可証を取得せずに通行することになり、不法越境となる(実はラサにいる日本人旅行
者の約半数は不法越境によってチベット入りしている)。日本を出て以来、トラブル
らしいトラブルも無く平凡な毎日を送っていた僕としては、最後に許可証無しの旅行
というものにチャレンジしてみたいと思った。料金が安いこともあってメンバーのみ
んなも賛成し、”闇”代理店に申し込もうということとなった。

ラサの街を歩き回ってやっと見つけた”闇”代理店から条件や詳細を聞き、翌日皆で
申し込みに行った。ところがなんと、僕らがその代理店に着く直前に、そこで手配さ
れたツアーの車に交通事故が発生し、緊急事態発生で営業を停止していた。この事故
には僕の知り合いも数人含まれれており、全員血だらけで病院に運ばれたそうだが、
詳しいことは確認できなかった。

仕方なく、僕らは正規の代理店に申し込むこととなった。正規代理店といっても交渉
は簡単ではなかった。価格のみならず、車の種類、現地人ガイドをどこに乗せるか、
など色々詰めなければならない項目があった。工夫を凝らしながら辛抱強い交渉をし
た結果、価格はある程度安くなり、ガイドを荷台に乗せることを契約書に記載するこ
となどに成功した(ランドクルーザーは通常4人乗りなのでドライバーを含めた合計
7人が4日間同じ車内に閉じ込められることとなり、乗車が義務づけられているだけ
のガイドの存在が僕らにはとても邪魔だった)。

[皆に見送られていよいよ出発です]
装備などの準備も整いいよいよ出発の時が来た。夜明け前の暗い中(ラサは時差と山
に囲まれているせいもあり、夜明けはなんと8時半すぎ)、わざわざ見送りのために
ベッドから抜け出してきてくれた日本人旅行者に囲まれて、僕達はラサを後にした。


コースは一日目は湖、二日目は温泉、三日目はエベレストベースキャンプ、4日目で
国境、である。

ラサを離れると風景は一変し、荒涼とした山々に囲まれたチベット一の大河に沿った
道を走ることになる。その後”日光いろは坂”のように曲がりくねった道をぐねぐね
上り、4800mの峠に達する。眼下にはチベット4大聖湖の一つといわれる真っ青な”
ヤムドク湖”が現れた。海面から4000mも上がったこんな場所に、こんな大きな湖が
あるのは不思議な感じがする。火山性のカルデラ湖であるためか水がコバルトブルー
に澄んでいてとてもきれいだ。峠自体が高いので風景を見ていても、頭と体がクラク
ラする。

再び平地に戻り、今度は大峡谷の中を数時間走る。このあたりの風景は、さながら
(写真でしか見たことはないが)アフガニスタンやパキスタン北部のようで荒涼とし
ていて美しい。この日はシガツェというチベット第二の町に宿泊。一見人の住めない
ような荒涼とした山の奥にどうしてこんな町ができたのか、またしても不思議になる
ような大きな町だった(人口5万人)。5人部屋の宿に泊まったが、人一倍寒がりの
僕はほとんど眠れなかった。

二日目は待ちに待った温泉だ。ラツェという村の郊外の山の麓にこの温泉はあった。
お湯は白濁色で温度も熱く、日本人にはぴったりの湯加減だ。湯船も大きく、地元の
修行僧がすでに湯浴みを楽しんでいた。下着を着けたまま入浴している僧も多かった
が、僕らは裸になり久しぶりに旅の汗を流した。

この日の晩は建物が数件あるだけの村とも呼べない場所(ニューティンリー)の宿に
泊まった。荒涼とした原野にただ一軒あるだけという漫画にでも出てきそうな宿だっ
た。この日は5100m級の峠を通過したため、僕は再び高山病にかかってしまい、ジン
ジンする頭を抱えながら眠りについた。夜中にふと起きて、外に出たときに見た星空
には、天の川が流れていて所狭しと無数の星が輝き印象的だった。

[生まれて初めてのエベレストです]
三日目はいよいよ今回のハイライト、エベレストだ。エベレストは8850mのはるか雲
の上にあり、素人では登るのは困難だが、5200mのベースキャンプまでは簡単に登る
ことができる。いくつかのチェックポイントを越え、入山料を払って進むとそこに
は、道のない荒涼とした荒れ果てた丘がヒマラヤ山脈まで伸びていた。

以前アラビア半島の砂漠を車で旅行した時、乗っていたランドクルーザーが崖のよう
な急斜面をものともせずに、突き進んでいったのを体験したが、今回もこんなゴツゴ
ツした岩だらけのオフロードを我が物顔で進んでいくランドクルーザーはすごい車だ
ということを実感した。

しばらく進むと、山の間から遠くにそびえる白く尖ったヒマラヤ連邦が見えてきた。
その中央に雄々しく尖ったエベレストが見えた。生まれてはじめて見たエベレストは
雲一つない青空にくっきりと白く映えてとても美しかった。

ベースキャンプの麓まで車で進み、そこからは歩いた。20日前に初めて標高5000m
を体験したときは頭が割れる思いだったが、それもここへきてようやく慣れてきた。
5200mのベースキャンプに向かって、岩肌を2時間かけて登った。空気が薄いため、息
が切れては休む・・・の連続だったが、快晴で天候もよく、エベレストのすぐ目の前
まで登ることができた。青い空を背景にした正面に大きくそびえるその山肌はとても
迫力がある。美しい景色が目に飛び込んでくることもあり、気分よく楽しみながら登
ることができた。すぐ近くに氷河から流れ出ている川が流れており、清流であるはず
の川が白く濁っていたので、不思議に思い近づいてみた。すると、それは凍るように
冷たい流れで、川底はすべて氷結していた。

この晩は、近くの村(オールドティンリー)の宿に泊まったが、寒さも極まれりとい
う感じだった。部屋の中でも吐く息は白く、あらんかぎりの防寒具をすべて着込み、
軍手をはめて、厚手の布団に潜り込んだが、いっこうに体は温まらずに朝を迎えた。


[最後の最後に公安に捕まりました]
いよいよ最終日。国境を越え、中国を出発する日だ。この日は何もない4000m級の高
原をひたすら走り、昼過ぎにニュラムという町に辿り着いた。ここで事件は起こっ
た。今まで僕は中国の絶対的権力組織、”公安”と関わったことはなかったのだが、
最後に彼らに拘束されてしまったのだ。

ガイドに案内された食堂が高かったため(ガイドはキックバックをもらって懇意の食
堂を斡旋しているようだ)、別の食堂に移ったところ、店主が気分を悪くしてトラブ
ルになった。殴り合い寸前までいったところでこちらは退散したが、むこうは気分が
収まらなかったらしく、公安を呼んだらしい。その件事体は暴力沙汰には至らなかっ
たので問題はなかったが、たまたま僕らの入った食堂が当局の正式な認可を取ってい
なかった模様で、僕らは全員その場で拘束されてしまった。本来はそのことを事前に
忠告してくれなかったガイドの責任なのだが、そのガイドも今後の職務がかかってい
るため一歩も引かず、悪いのは僕ら5人だけだと公安に必死に主張した。

僕らが処罰されることになったかに見えたが、ガイドとドライバーが警察に連行され
た。結局、取り調べにより、ガイドが罰金を支払うことで解決し、(彼には悪いが)
僕らは胸をなで下ろした。公安に呼ばれたとき、正直僕は不安と緊張で膝ががくがく
震えていたが、この一年間に勉強した交渉テクニックを思い出し、(心の不安を隠し
て)つとめて明るい笑顔で自信を持って接した。(これがよかったのかな・・・?)


[チベット高原はあるところで突然終わります]
なんとか危機を脱け出した僕らは、最後のドライブを楽しんだ。チベット高原はこの
ニュラムで終わり、ここから国境にかけて急な下り坂が続く。標高3800mのニュラム
から国境の町”ダム”まで、たった30kmで1500mも下る。景色も、植物などほとんど
生えていない荒れ果てた高地だったのが、次第に杉や松などの木が茂り、見る見る緑
が増えてくる。”ダム”では蝉まで鳴いている。雲やうっすらとした霞があたりを覆
いはじめ、滝や川が流れ、日本のような世界に我々は戻ってきた。この1時間で手肌
に潤いが戻ってくるのが自分でも分かった。そしてこれが荒涼としたチベットとじっ
とりとした南アジアの境であることを実感した。

[チベット第三の試練がネパールとの国境越えです]
国境の町ダムは崖のような斜面に張り付いた町だった。チャーターしたランクルは国
境を越えられないので、ドライバーとガイドとはダムでお別れとなる。ここでは肌の
浅黒いアーリア系(インド人など)の人々が見られ、人種的にも自然環境もそれまで
の中国とはまったく違った町だった。おそらくここも、ある日突然中国人がやってき
て、町を建設しはじめたのだろう。漢民族を見かけるのがとっても不思議な気のする
町だった。

ようやくあの辛いチベットを抜けたのだ!と思ったら、実はここからが最後の試練
だった。肉体的な辛さでいえば、ゴルムドからラサの高山バスが第一の試練、ラサか
らエベレストまでの高地越えが第二の試練だとしたら、第三の試練は中国国境ダムか
らネパール国境”コダリ”までの10kmだ。

この10kmは実はとんでもない悪路で公共交通機関はほとんどなく、民間のトラックが
数台走っているくらいだ。荷物を持って歩くには遠すぎる距離なので、皆でトラック
に乗せてもらうことにした。急な山の斜面を縫うようにして続く小道はあちこちで川
で流されたり、土砂崩れで道が狭まっていたりと、とても車道とは言えないような道
だった。そして乗ったのが大型のトラックのため段差がそのまま大きな揺れに直結す
る。乗り込んだら最後、コダリまでは止まることはない。どんな遊園地でもこれほど
の激しい揺れを体験したことはなかった。”飛んだり、跳ねたり”とはまさにこの事
をいうのだということを実感した。5秒と同じ場所に腰を下ろしていることは不可能
だった。

[ネパールの温泉でヒマラヤ越えは終了です]
やっとの思いで、ネパール側国境の町コダリに到着。国境は土砂崩れで半分崩壊して
いた。入国審査を済まし、余った人民元を両替。山道を4km歩くとそこにはネパール
の温泉町タトパニがあり、感じのいい宿にチェックインした。全員埃まみれで真っ黒
になっていたので、温泉(打たせ湯)にみんなで行った。ちょうどよい熱さで、生き
返る思いがした。

寒さに肩を震わせながら宿を出て、公安に捕まって膝が震え、トラックに乗って全身
が震えた長い長い一日だった。

高畠猛嗣