強制棄教・改宗

(Deprogramming)

統一教会・鳥取教会襲撃事件

3 鳥取教会襲撃計画と実行

 米子市内での監禁から自力脱出した裕子は、両親に手紙を書いて、信仰をやめる意思のないことを伝えた。裕子に対する、両親の追跡は厳しかった。裕子は広島市や三原市に移動して身を隠しつつ、教会員の子弟の保育をしながら信仰を続けた。
 それが、裕子に対する2度目の拉致・監禁事件、それも教会襲撃という忌まわしい事件に発展するきっかけになったのは、韓国・ソウルで開かれた、国際合同祝福結婚式への裕子の参加だった。


■裕子が衛星放送で参加した国際合同祝福結婚式
 
1995年8月25日、韓国ソウル市のオリンピックスタジアムで行われ、36万組が参加した。

国際合同祝福結婚式
 1995年8月25日、韓国・ソウルで開かれた統一教会の国際合同祝福結婚式には、世界各国から36万組が参加した。裕子は渡韓して韓国人男性と結婚する予定で、すでに岡山パスポートセンターでパスポートの申請も済ませていた。
 しかし、両親が裕子を捜し回っているとの情報が入り、パスポートを取りに行けば、その場で、再び拉致される危険性があると判断して断念@。結局、日本で衛星放送を通じて、国際合同祝福結婚式に参加した。
 その後、裕子は実家に定期的に電話をかけるようになり、1997年3月上旬に電話で母親と話したときには、
 「もう二度と拉致、監禁しないでほしい」
 という裕子の頼みに、母親は、
 「もうしない」
 と約束しているA
 同年3月と4月頃には計2度、統一教会・鳥取教会で、裕子と母親、弟、妹の面談も行われている。
 当時、裕子は鳥取市にもどり、鳥取教会で保育の仕事をしながら、結婚入籍の準備に入っていた。2回目の面談のとき、裕子が母親に、国際合同祝福結婚式で韓国人の男性と結ばれたことを話すと、母親は、結婚の相手が外国人であることに動揺を見せたというB
 妻と長男から話を聞いた父親は、そのときの気持ちを〃鳥取教会襲撃裁判〃の「陳述書」にこう書いている。

 〈裕子は「韓国に(中略)双対者がいてすでに写真で合同結婚している。できるだけ早く韓国に行きたい」と洩らしたらしいのです。
 私はこの話を聞いて、保護の必要性についてあまり時間的余裕がないのではないかと感じたのでした。
 もし三回目の面会があるとすれば、それが最後となるであろうことを予想しました。
 統一協会では原理数として三という数を尊重するからでありました。〉

7回におよぶ転籍工作
 1995年8月の段階ですでに、裕子の国際合同祝福結婚式への参加を察知していた父親は、その間も、裕子に対する訪韓妨害、入籍妨害ともとれる特異な行動をとり続けていた。
 1996年3月から翌97年6月までの1年3カ月の間に、裕子の入っていた父親の本籍地を、実に計7回にもわたって転々と、鳥取県内を転籍し続けたのである。裕子の「陳述書(一)」によれば、次のような具合だった

 〈平成九年五月、私は入籍手続きするために戸籍謄本を取り寄せようとして、鳥取県(中略)にあった元々の本籍地を書類に書いて(中略)町役場に請求しました。ところが転籍になっていたので、転籍届の写しを郵送で取り寄せました。すると、倉吉市に転籍されていました。私が倉吉市役所に電話を入れると、本籍は倉吉市からも転籍されていました。そこで倉吉市役所に対して戸籍謄本と転籍届の写しを郵送で請求しました。すると、米子に転籍されていることが分かりました。〉C

 裕子の「婚姻入籍を妨害した」という主張に対して、父親はこう反論した。

 〈被告(父親)は裕子が直接市役所(役場)に現れて戸籍謄本を取ったときに保護の機会があると考え、戸籍を数回にわたり移転させた。外国人との結婚に反対したためではなく、あくまで保護が目的であった。この時点では、裕子の結婚相手が誰であるかは聞かされていなかった。D

作成された教会襲撃計画
 その後、裕子と両親側の話し合いは、日程の折り合いがつかず延び延びになったが、1997年六月に入って、同6月7日午後2時に、統一教会・鳥取教会の2階において、教会の家庭問題相談員Fの立会いで、裕子と母親の話し合いがもたれることになった。
 父親はその日を、裕子の拉致決行日に決定した。〃鳥取教会襲撃裁判〃の「陳述書」で、

 〈裕子との電話対応で六月七日午後二時から第三回目の母娘の面会がある。実施はそれから三〇分後。〉

 と述べている。また、拉致の方法について次のように述べている。

 〈保護の方法
 (1)家に帰ったとき
 (2)路上を通行中
 (3)教会、ホームといった協会施設に踏み込む場合
 の三方法が考えられる。
 私は(1)、(2)の方法について日夜さぐってきましたし、その可能性について実地にいろいろ動いてみました。
 駅やバスターミナル等々を見張ったり、多くのことをしてみましたがいずれも不可能という結論をみるだけでした。
 残るのは(3)の方法です。けだしこの方法では私の場合外見上は法を犯すこととなりますので、人を説得できる大義名分が必要となります。〉


 父親本人が「外見上は法を犯すこととなります」と認めていたように、教会襲撃は、暦とした犯罪である。
 また、父親は「拉致」「監禁」を否定して、「保護」や「救出」という言葉に固執しているが、物理力や欺計を行使して、裕子本人の意思に反して身体の自由を奪い、拘束する行為は、どこから見ても「拉致」「監禁」以外のなにものでもない。

■富澤裕子「実地見分調書」添付の再現写真
 
裕子は抵抗を封じられ、襲撃者たちに抱えられてワゴン車に運ばれた。

「拉致・監禁」の加害者が唱えるマインド・コントロール理論
 そして、父親は続けて「陳述書」で言う。

 〈マインド・コントロールが統一協会内部での献金に対する心理に作用させ得たら、統一協会は献金名下に信者から金を集めることができる。
 統一協会は信者に対して脅迫的言辞を信じさせることによって、上司の命令の絶対化、無批判、脱会の罪悪性等の 心理を醸成させて献金名下に金を集めているともいえるのである。
 一般的な法理論からしても、これらは恐喝であり、脅迫であり、強盗である。
 マインド・コントロールにかかっている間は何でも「ためにする」ことができる。
 その事件が立件できかどうかは別として統一協会の体質そのものは犯罪なのである。
 従ってそこから騙されて入信させられた者を救出することは正に正義の行動にほかならない(信者はマインド・コントロールがかかっていて「騙された」意識がないのであるが)。そこに保護に必要な大義名分がある。〉

 すさまじいばかりの独善、と評されなければならない。 本ドキュメントの後の部で詳しく述べるように、マインド・コントロール理論は空論にすぎず、世界の学会、司法で否定されているばかりか、日本の裁判所もこれを認めていない。
 重要なことは、この父親が唱えるような、マインド・コントロール理論を素人解釈した「拉致」「監禁」の「大義名分」なるものが、他の多くの拉致・監禁事件においても、加害者によってほぼ共通して主張されていることである。
 その事実が、特定宗教の信者に対する拉致・監禁事件の多発に、幅の広い、一定のバックグラウンドが存在していることを窺わせる。

牧師・高澤守の存在と裕子の主張
 ところで、その間、父親らが何かと頼っていた人物がいる。
 統一教会に反対する活動家の一人で、宗教法人キリスト教神戸真教会(兵庫県神戸市)の代表役員をしている、高澤守というプロテスタント福音派の牧師である。
 裕子の主張によれば、父親は裕子の〃米子監禁〃に失敗した後、牧師・佐藤勝徳から京都にある日本イエス・キリスト教団京都聖徒教会の牧師・船田武雄を紹介され、さらに、岡山の反統一教会牧師らを訪ねる中で高澤と知り合った。その後も、父親は高澤から、裕子を統一教会から脱退させることについての指導を受け続けたという。
  裕子は、高澤から直接話を聞いた女性信者の証言(「陳述書」)Eを基に、高澤が〃鳥取教会襲撃事件〃〃鳥取監禁事件〃の両方に直接関与していたと、激しく非難した。

 〈(母親)は、(父親、長男)に平成九年六月七日午後二時、鳥取教会二階で(裕子)と面接することを告げると共に、被告高澤にも同様のことを伝えて、その指示を求めたところ、被告高澤が(母親)に「娘が韓国へ行ってしまったら娘と会うことが出来ないようになる。そこで、これが最後のチャンスであるので、今後、娘と会う時、二〇人位の親戚等の人を集め、娘を連れ出さなければならない。」と指示し、その後、その指示に基づき、(父親)らと協議した後、(母親)は被告高澤に「私の方では一〇人くらいしか集まらない。どうしたらよいか。」と答え、更に指示を求めたところ、被告高澤は「それなら私の方で一〇人位を集めます」と言い、ここにおいて、(両親)、高澤は来る平成九年六月七日午後二時、鳥取教会で(裕子)が(母親)と会見、面談の場所へ二〇人位の者を動員し、共同して(裕子)を拉致、監禁して棄教、改宗を強要することを共謀した。〉
 〈かくして、(両親)は被告高澤と共謀の上、高澤の指導の下で、他の二〇人位の者と共同して鳥取教会より(裕子)を拉致し、その後も高澤の指揮の下で、(裕子)を他所に連行して(中略)一連の監禁を継続した上、その監禁に乗じて、高澤が中心となって、(裕子)の棄教ならびに改宗を強要することを共謀した。〉
 〈かくして、(両親)ならびに高澤は順次共謀の上(中略)、(裕子)の逮捕、それに続く一連の監禁、棄教の強要を実行したものである。〉F

牧師・高澤守の主張
 これに対して、高澤は、裕子の両親とは、統一教会から娘を脱会させた経験のある親からの紹介で1995年10月4日に知り合ったと述べて、教会襲撃事件とのかかわりを、

 〈私は六月七日に保護されるという話は聞いていましたが、どこで、どのように保護されるかという具体的な内容までは聞いていません。〉

 と否定してG、こう主張した。

 〈被告高澤は、保護できた折にはできる限りの説得の協力をすることを約束した。その後、高澤は(両親)に、統一協会を脱会した人達やその家族との交流をすすめたり、その機会を紹介したりしながら、次の機会に備えるように励ましてきた。
 そして、(両親)から、(裕子)との経過の報告を受けていたが、1997(平成九年)六月七日、午後二時に(母親)が(裕子)と面会することやこの機会を逃せば保護することは困難であることを聞き、保護に成功すれば、(両親)が借り受けたマンションまで説得に赴くことを約束していた。H
 〈(裕子)は、(両親)に対し、(裕子)との次回の面会が最後であり、(裕子)を拉致監禁するとしたらこの機会しかないと唆し、鳥取協会への襲撃をけしかけたのは被告高澤であると主張する。しかし、これは(裕子)の全く根拠のない独断であり、事実と異なる。被告(両親)が、決意した経緯は(中略)すべて(父親)の責任と計画においてなされ、高澤は(裕子)が救出された後、連絡を受けて始めて知ったことであり、全く関与していない。IJ

鳥取教会襲撃の実行
 1997年6月7日午後、こうして、統一教会・鳥取教会に対する襲撃と、裕子の拉致が実行された。
 父親の「陳述書」等によれば、父親をリーダーとする襲撃団は計画通り、午前11時、「第一集合場所」に決めた鳥取市郊外の鳥取砂丘にあるレストラン「砂丘ユニオン」に集合。約12名だったという。さらに、午後1時30分、「第二集合場所」の「ジャスコ駐車場4階」に総勢15〜16名が集合K。裕子を拉致するためのワゴン車1台、普通乗用車3台に分乗して、統一教会・鳥取教会に向かい、午後2時30分頃、裕子と母親が話し合っている教会内に乱入したのである。
                                             (3 了 2002年8月30日改訂)                                       

脚注
@ 事実、父親は〃鳥取教会襲撃裁判〃の「準備書面(二)」で次のように述べている。
 〈平成七年八月二五日ソウル市内で合同結婚式が執り行われるとの情報が入った。裕子はそれ以前の平成七年八月七日鳥取市役所から誰かに依頼して、両親に内緒で岡山市(中略)に住所を移してたので、きっとソウル行きのためのパスポートの申請をしに岡山パスポートセンターに姿を現すものと予想された。/そこで、被告(父親)と親戚の者とで、二度にわたり、岡山パスポートセンターに出向いたが、行き違いで裕子は申請を済まし、同年一二月二五日にパスポートを受領した。〉
A 父親側は〃鳥取監禁裁判〃の「準備書面」で認。
B 父親側は同「準備書面」で「「(母親)は相手方が外国人であることに動揺していた」との点を否認する。合同結婚式をしたことに反対したものである」と認否した。
C 裕子の「陳述書」によれば、本籍地の最終所在地・町役場に弟が現れ、裕子の婚姻届の不受理を申し入れた。
 〈役所の人の話では、私の婚姻届を受理しないよう何とかして欲しい旨の相談をしたけれども、役所としては本人から届け出があった場合には受理せざるを得ないと答えたとのことでした〉。

  1998年12月9日、裕子は日本で韓国人男性との婚姻届を提出した。
D 〃鳥取教会襲撃裁判〃「準備書面(二)」。
E この女性信者(主婦)は、夫とも引き離されて、福岡県大牟田市内のマンションに約7か月にわたって、本人の意思に反して拘束された(本人は「監禁」を主張)。高澤は女性信者の説得に現れ、〃鳥取教会襲撃事件〃についてこう話したという。
   「この襲撃事件で拉致された女性信者の母親より事前に私に相談があり、その母が娘に鳥取教会で会うことになっており、その際、『娘より料理を持ってきてくれと言われていますがどうしましょうか』と相談を持ちかけられた。そこで私はその母に、『娘が母親の手作りの料理を欲しがっているというのは、娘が最後の思い出づくりをしようとしているに違いない。娘が韓国に行ってしまったら会うことが出来ないようになる。そこでこれが最後のチャンスであるので、二〇人ぐらいの親戚等の人をすぐ集め娘を連れ出さなければならない』と指示した。そうしているとその後、少し後頃に右母親から私に『私の方では一〇人ぐらいしか集まらない。どうしたら良いでしょうか?』との相談が来たので、私は『それなら待っていて下さい。私の方で一〇人位集めます』と言い、私は他の牧師、元教会員等々と相談し、一〇人位を鳥取教会に派遣したのだ」
 この「陳述書」に対して、高澤は「準備書面(三)」で、この女性信者は高澤に強い反感と憎しみを抱いているうえ、統一教会に協力する立場にあって、供述は信用できないと主張した。
F 平成一一年(ワ)第七二号 損害賠償等請求事件(〃鳥取監禁裁判〃)「訴状」。1999年5月11日。
G 同請求事件「陳述書」。
H 同請求事件「準備書面(二)」。
I 同請求事件「準備書面(三)」。
J 平成一一年(ワ)第七二号 損害賠償等請求事件(〃鳥取監禁裁判〃)を審議した鳥取地裁の判決は、「両親が他一〇名くらいの者と共同して、(裕子)を逮捕し、用意していた自動車内に連れ込んで監禁し(た)」行為について、高澤が「(両親)の不法行為を幇助した」と認定。広島高裁松江支部の控訴審判決は「(高澤は、両親)から相談を受けた際に、同人らが本件のように違法な逮捕、監禁行為を行うことを予測していたものと認められる」と認定した。
K 統一教会側は、襲撃団の総勢は約20名だったと主張している。

 

 

前ページ

Deprogramming-TOP

次ページ