先に放映され、伝説的な評判を呼んだ第40話「どれみと魔女をやめた魔女」に続く、
気鋭の演出家細田守担当回である。
音楽を学ぶために、別の学校に進学することを
幼稚園からの親友どれみに言い出せないはづき。
はづきの心情を察しながら、本人の告白にまかせようとするあいこ・おんぷ・ももこ。
やがて自分の夢を再確認したはづきは、どれみに本当のことを言おうとする。
実はどれみもそのことに気付いていた。はづきの進学を祝福するどれみ。抱き合う2人。
降り続く雪を透かして陽光が差し込む音楽教室に、流れるおジャ魔女5人の合奏。
演奏されるのはこの時のためにはづきが作曲した"Friends"……
構図や背景の小道具、音響に至る全てに意図が込められているといわれる細田演出は
前回ほど判りやすい形ではないものの(5人の異なる進路を暗示する五叉路など)
今回も随所に見られる。階段の上下、2階と1階などの位置関係で示す心理的距離、
逆光を多用した不安の表現など。いわゆる「批評しやすいアングル」というやつだ。
(佐藤順一の『エヴァンゲリオン』に対する端的な評価)
しかしそれ以上に、顔の表情や目線、仕草などキャラクターの芝居による心理表現の割合が
前回よりも大きくなっている。アニメーターの力量への信頼が感じられる。
恐らく"Friends"を実際に演奏させ、運指を観察したのだろう音楽シーンや
CGを使用した背景動画、逆光を受け灰色に見える降雪の表現などの手のかけように
東映アニメーションの細田守に対する破格の待遇が窺える。
特に全編通して降り続いている雪の表現は、普段「アニメの雪」を見慣れた目には
過剰にも感じられたのだが、この後一つのスタンダードになっていくのかもしれない。
5人のおジャ魔女の中で、離婚家庭のあいこ、芸能人のおんぷ、帰国子女のももこに比べ
気弱な眼鏡っ娘というポジションのはづきは、非常にキャラが弱く
シリーズの中ではあまり良い扱いを受けていなかった。
5人それぞれの進路を描くクライマックスにおいても
とりわけ地味な仕上がりになると思われたはづき編ではあったが、
スタッフの配置も含め異例の力の入れ様となった。
特に4年間引っぱったあいこの物語が、過剰にして配慮を欠いた脚本と演出によって
いま一つの着地に終わったのを観た後だけに、細田演出と成田良美脚本の繊細さが際立つ。
魔法少女物でありながら必然性のない(これはこのシリーズの問題でもあったが)
魔法が登場しないのは、プロデューサーの英断でもあるのだろう。
ところで、本編の主人公である春風どれみが、他の4人に比べて特別な取り柄がないにも関わらず
主人公足りうる理由が「底意なく他者を受け入れる優しさ、心の大きさ」であることは
シリーズを立ち上げた佐藤順一の作家性に由来するように思う。
この構造はやはり佐藤が生んだ『セーラームーン』と全く共通だ。
赤ん坊だったハナちゃんを無理やり成長させてどれみたちの同級生にしてしまったのも
もはやお馬鹿さんではいられなくなったどれみのポジションを
補完するためだったということも、今回何となく納得できた。
私はシリーズ2作目『#(しゃーぷっ)』途中で本作に冷めてしまったのだが
ラスト2話は見届けようと思う。(03.01.12)
19世紀風のお屋敷に、セーラー服に半ズボン、白いタイツ姿の少年が住んでいる。
病気がちでなかなか外に出られない彼は、門の外から中を覗いているそばかすの少女が気になるが
門を開けて一緒に遊ぶことができない。
少年の部屋には中国風の玩具や人形が数多く並べられている。
やがて少年は熱に浮かされながら眠りに落ち、人形たちが活躍する夢を観る…。
中国の少年皇帝が、宮殿の中で大勢の官人に囲まれて暮らしている。
一挙手一投足を宮中の規則に縛られ、機械仕掛けの人形と一日を過ごし
宮殿の外の自然には一切触れることがない。
ある日、異国からの訪問者から中国の文物を描いた書物がもたらされる。
そこには皇帝がすでに持っている玩具ばかりが描かれていたが
ただ一つ彼が知らなかったのが、美しい声で歌を奏でる鶯だ。
皇帝の所望により、家臣たちが鶯の捕獲に出かける。
案内するのは、現実界でも登場したそばかすの少女だ。
捕まえられた鶯は、かつて聴いたことのない美しい声で高らかに歌い
皇帝は思わず大粒の涙をこぼす。
ところが、先に訪れた異国人から、機械仕掛けの鶯が贈られてくる。
その奇矯な鳴き声と動きに皇帝は夢中になり、本物の鶯のことなど忘れてしまう。
こうして機械仕掛けの声は休むことなく宮中に響き渡り、
すっかり嫌気がさした皇帝は、籠から逃げた本物の鶯を探すが、どこにもいない。
やがて皇帝は病に伏せり、死の使いがやってくる。
その時、鶯が窓辺に舞い降りて、野性の歌を歌い始め、死神は墓場へと帰っていく。
翌朝、すっかり元気を取り戻した皇帝は、家臣の指図や時計人形の鳴らすドラにも耳を貸さず
ゆっくりと、自分自身のペースで、歯を磨き続ける…。
夢から目覚めた少年は、傍らで動かない中国の人形たちを不思議そうに眺める。
窓を開けると、門の外で少女が手を振っている。
少年は階段を駆け降り、門を飛び出して、少女とともに光射す森へと走り出す。
機械文明や官僚主義に対する批判よりも(それは社会主義国家では危険な主題でもあっただろう)
夢=虚構が与える生きる力についての、肯定的な寓話がここには描かれている。
歴史的背景を超えて普遍性を持つのはこの部分だ。
現実と虚構を入れ子状に描く「メタフィクション」、映画についての映画は数多いが
現実を実写で、虚構を人形アニメで描いた『皇帝の鶯』ほど力強く効果的なものは少ないだろう。
しかも、動くはずのない人形に命を吹き込むアニメーションは
実写部分以上の生命力を持っているのだ。これが「夢の力」という主題に説得力を与えている。
ところで、トルンカ作品の人形たち、とりわけ『皇帝の鶯』に登場する造形は
そのどれもがこの上なく可愛いのだ。
皇帝や少女の人形の愛らしさ、家臣たちの官僚的な動きの滑稽さ、精緻で奇妙な機械たち。
実写部分でもヨーロッパ文明の厚みを感じさせる家屋や内装、家具、
エキゾチックな中国玩具、少年少女の服装など、非常に洗練された趣味に貫かれている。
女性客の多さはそういう理由にもよるのだろうか。
『チェブラーシカ』に開拓された「カワイイもの好き」の人々は
『皇帝の鶯』のファンシーさにもハートを持ってかれること受け合いだ。(03.08.28)
バヤヤが父と暮らす小さな家は、森の中にあった。
木々は陽の光を遮り、酷薄な土地はわずかな恵みすら惜しむ。
水汲みから帰った息子に、疾み衰えた父が食べかけの皿を与える。
そんな貧しさに耐え兼ねてか、母は家族を捨てて去った。
家は病に覆われていた。世界から見捨てられた孤愁という病に。
月夜の晩、バヤヤは遠くから自分を呼ぶ声を聞いた。
窓の外には、全身を白で包まれた馬の姿があった。
息子よ。私はお前の母です。
家族を捨てた報いで、このような姿に成り果ててしまいました。
私と共にいらっしゃい。そうすればお前に幸せがもたらされ
私の呪いも解けるでしょう。
バヤヤは、小さな寝台に身を縮めて眠る父の姿を眺めた。
しばらくして、彼は母である馬に跨った。
幸せを手に入れ、この家に戻ってこよう。そう自分に誓ってみせたものの
結局は未知の世界に対する、若者らしい憧れに勝てなかったのである。
☆☆
街を見下ろす丘に聳え立つ、壮麗な城にあって、王は憂いに沈んでいた。
巨大な3頭の竜が王国の空を脅かし、国土は荒れ、平穏は去った。
国難を救わんとして、王は竜が去ってくれるように取り引きを持ちかけた。
望みを訊いた王に、竜は答えた。
お前の愛する3人の姫たちが美しく成長したその時に
我々への贄として差し出すがよい。3人ともだ。
そうすればこの国を去ってやらぬでもない。
王は叫ぼうとした。そんな約束はできない。
だがその声は、激しく空気を震わせる翼のはばたきに吹き消された。
その後十数年が過ぎ、竜たちは悠然と空と大地を陵辱し続け
時が満ちて匂い立つような美しさを身に纏った3人の娘たちは
まさに竜の顎の前に捧げられようとしている。
広大な居城で、為す術なく頭を抱える王。
道化の滑稽な振る舞いも、笑顔を取り戻すことはない。
王も一人の無力な父親でしかなかった。
恐ろしい運命が、姫たちの表情にも暗い影を落としている。
高窓の傍らで物憂げに頬杖をついていた三の姫の耳に、美しい調べが流れ込んできた。
見ると、一人の粗末な身なりをした若者が、リュートをかき鳴らしながら
愛の歌を歌っている。
お聞きなさい、私の歌を。
私が誰に歌っているか、
私の胸いっぱいの愛が
誰のためのものか、あなたにはわかるだろうか
姫たちは、自分たちに(自分に!)向けられた愛の調べに惹き付けられた。
門番は、若者を門付けの芸人とでも思ったのか、橋を降ろして城内に迎え入れた。
こうしてバヤヤは、城に入ることができたのである。
馬が用意したリュートのおかげだった。
この楽器が、あなたの真実の愛を歌にして届けるのです。
あなたが生涯の愛を捧げるべき人のもとへ。
こうして、束の間の平和な数日が過ぎた。
快活で積極的な二の姫が、バヤヤにまとわりつきからかっている。
顔を赤らめながら困っている様子のバヤヤ。
そんな二人を物陰で伺う、いつも伏し目がちな三の姫。
一人ぼんやりとしていた三の姫のもとに、
リュートをかき鳴らしながら近づくバヤヤ。
――あなたにわかるだろうか、私の愛が誰のものか
内気な三の姫は、その目を一層伏せてしまう。
戦いの時が来た。白馬が前足で地面を叩くと、古めかしい箱が現われた。
収められていたのは緋色のマントと黄金の鎧、輝く剣。
このマントが竜の火炎を跳ね返し、鎧は鋭い牙をも通さず
無双の剣は固い竜の鱗を貫き通すでしょう。
あなたの勇気が、これらの武器の力を無限にもするのです。
暗い夜道を輿に乗せられて、竜が待ち受ける暗い山奥へと進んでいく一の姫。
輿を引く家来たちも、己の無力に泣くばかり。
やがて闇空を裂いて、無数の首を持ったおぞましい竜が舞い降りたその時。
緋色のマントと金色の鎧を身に纏った美丈夫の騎士が、
マントと同じ緋色の布で体を覆った馬とともに現れた。
騎士は、自らを噛み砕こうとする無数の首をすり抜けて、一つずつ胴から首を切り離していく。
やがて最後の首が血飛沫を上げて地面に落ち、騎士はマスクで隠した顔を見せることなく去った。
こうして、二の姫が捧げられる夜も、三の姫の夜も、騎士は襲い来る竜たちと戦った。
三度目の戦いで、最後の竜を打ち倒した騎士。
全身に返り血を浴び、肩で息をする彼の姿を見つめる三の姫。
マスクの下の騎士の目は物言いたげに見えたが
何も語ることなく身を翻して、明け始めた朝に去っていった。
☆☆
国に平和が訪れた。喜びに沸く王と臣民。大いなる祝の席が設けられた。
それは、憂いのなくなった今、年頃の姫の婿を選ぶ場でもあった。
数多くの求婚者が姫たちの前に立つ。その足元に林檎を投げられた者が、幸運な花婿だ。
一の姫と二の姫はそれぞれ高貴な家の出身らしい、
穏やかで賢そうな男、強く頼り甲斐のありそうな男の前に林檎を転がした。
城の中庭は歓喜の声で溢れる。
次はいよいよ三の姫の番。なのにその表情はどこか物憂い。
それでも躊躇いがちに放った林檎の鮮やかに赤い実は、
思いも寄らぬ人の足元に転がっていった。
粗末な衣を身に纏い、薔薇の花束を抱えているのは、
かつて自分に愛の歌を捧げたあの「芸人」。バヤヤだった。
おずおずと三の姫に花束を差し出すバヤヤ。だが姫は彼のほうを見ようともしない。
これはどうしたことかしら?
たしかに私はこの人の愛の歌を聴いて、心ときめかせたこともあった。
でもそれは、罪のない戯れのようなもの。
私は大人になるのだから、父のため、民のために
国を支える気高くて力強い殿方を選ばなくてはいけないわ。自分のためではなく。
――あの人のような。
三の姫の目の奥には、彼女を救ったあの騎士の姿が焼き付いていた。
姫は自分に嘘を付き、国のため父のため民のためと大義を用意して
取るに足らない男の花束を、地面に放り投げたのだった。
沸き起こる嘲笑。選ばれなかった求婚者たちの笑いが、腹いせのように一際高い。
悄然として会場を去るバヤヤ。
可愛そうだけれど、これがあの人のためでもある。
ここでもまだ三の姫は嘘を付いていた。
☆☆
平和な時だからこそ、人は娯楽としての戦いを求めるのか。
国を挙げての武術大会が、求婚の宴を開いた同じ中庭で行われた。
国中から腕に覚えのある者が集まった。そこにはバヤヤを笑った髭面の求婚者もいた。
大会の勝者は、いまだ婿を選んでいない三の姫への求婚の権利を得るからだ。
それなのに、会場に三の姫の姿はない。
彼女は、高窓の縁に寄りかかり、気のない様子で下の喧騒を眺めていた。
大袈裟な鎧に守られた騎士たちが、馬に乗り長槍をかざして互いに擦れ違うたびに
どちらか一方は無様に落馬して、あっけなく勝敗が決まっていく。
やがて、それなりの技量の持ち主だったのか、件の髭面の男が勝ち残ろうとした時
緋色のマントと金色の鎧に包まれた騎士が、身を布で覆った馬に跨って城の門を潜った。
三の姫の胸は踊った。あの人だ!
長い階段を駆け降り、王や姉たちのいる席で身を乗り出す。
猛々しさを隠さない髭男と、どこか冷めている様子の騎士が、
互いに長槍を抱え持って愛馬に騎乗し、風のように左右から駆け抜けた次の瞬間、
地面に転がっていたのは髭男だった。
決勝戦だからか、髭男がごねたのか、勝負は2回戦に。髭男はナイフを腰に隠し持っている。
そんな卑劣な企てなど意に介さぬかのように、
またもや騎士は平然と髭男を馬から追い落とした。もはや誰の目にも勝敗は明らかだ。
勝者は三の姫に一歩一歩近づいた。姫の胸は早鐘のように鳴る。
だが、もはやマスクに覆われてはいない騎士の顔を見て、姫の胸の鼓動は止まった。
その顔は、かつて自分に愛を歌い、自分が手ひどく拒絶した若者――バヤヤだったから。
姫は動揺を抑えて笑顔を作り、震える手で勝利の月桂冠をバヤヤに差し出す。
バヤヤは受け取った冠を無表情に眺め、やがてそれを地面に叩き付けて
姫の表情を見ようともせず去った。
三の姫は顔を両手で覆い、いたたまれずに会場を離れ、自分の部屋に逃げ帰った。
姫は大声で泣いた。
なんということ。私は彼に拒まれた。私が彼を拒んだように。
私が彼を傷つけたから。私が愚かだったから。
人のうわべだけを見て、本当の真心を知ろうとはしなかったから。
バヤヤはもう、戻ってはこないだろう。
☆☆
一の姫と二の姫の結婚の宴が、大広間で盛大に祝われていた。
夫となる人と身を寄せ合う姿は、幸せな花嫁そのもの。
その傍らに、うつむく三の姫が同席していた。
花婿を選べなかった彼女の隣の席は、ぽっかりと空いている。
父王や道化が彼女を気遣うが、その顔に笑みはない。
気まずい空気に耐え兼ねて三の姫は席を立つ。
彼女の後を追う道化の足を引っかけて転ばせるのがあの髭男。立場の弱い者にどこまでも残酷だ。
その時、道化が初めて顔に殺意を漲らせて、ナイフを振りかざす。
髭男は恐怖に震え、食事用のナイフを握って竦み上がる。卑劣で臆病な本性が明かされる瞬間。
途端に道化は「なーんちゃってね」とばかりにナイフを捨てておどける。一同大笑い。
宴に呼ばれた魔術師が、鉢植えに種を植え、魔法をかける。
すると芽が吹き出し、小さな樹に育ち、美しい花が咲く。
花びらは萎れて落ちてしまうが、そこから大きな林檎の実が稔る。
失われた愛や信頼や希望も、このように甦るものだろうか。
三の姫は、人のいない中庭に立って、足元を見つめている。
かつて求婚の宴が行われたそこには、バヤヤから贈られ、姫が投げ捨てた花束が
萎れることもないままに打ち捨てられていた。
姫がその花束を拾い上げ、胸に抱き寄せる。
失われた愛の形見のように。
バヤヤは物思いに沈んでいた。全てがどうでもよくなりつつあった。
真実の愛に出会ったと思い、命を賭けて竜と戦い、それで得たものは
傷つけられた心と、怒りに任せて相手を傷つけてしまったという、更なる痛みだった。
三の姫は今頃、どうしているだろう。それを考えると尚更やるせなさが増した。
そんなバヤヤに、母の霊を宿した白馬が語りかける。
息子よ、私はあなたのためにいろいろしてきましたが、これが最後です。
さあ、私の首をあなたの剣で切り落としなさい。そうしなければいけないのです。
バヤヤは驚愕し、激しく困惑し、首を左右に振る。だが、馬はそれには構わずに
私はあなたにさまざまなものを与えました。
魔法のリュート、魔法のマント、魔法の鎧、魔法の剣。
私がいるかぎり、あなたは私の魔法に頼り続けるでしょう。
それではあなたが駄目になってしまいます。
これからの人生に必要なのは、あなたが愛と真心を捧げるに足る伴侶と、
守るべきものを守る勇気だけなのですよ。
だから、これが私の、いたらない母としての最後の勤めなのです。さあ!
バヤヤは泣いた。できればそんなことはしたくないと願った。
永遠のように思える時間が過ぎて、バヤヤは重い剣を白馬の首目がけて振り降ろした。
母の魂は、白い鳥となって天に昇っていった。
三の姫は、一人部屋でリュートを見つめている。
バヤヤが残していったその楽器は、姫が絃を弾いても美しい音色で鳴いた。
姫が慈しむようにかき鳴らしていたリュートの響きが、突然止んだ。
驚いて何度弾いてみても、全く何の音も出ない。
それは、母の霊力が消えたためなのだが、三の姫はそうは思わなかった。
楽器にまで拒まれたと、彼女は顔を覆って泣いた。
力なく姫が佇む窓辺に、歌が聞こえた。かつて歌われた愛の歌。
無人のはずの中庭に三の姫が降りていくと、そこには騎士の姿のバヤヤがいた。
互いに駆け寄り頬を寄せる二人に、言葉は必要ない。
二人は手に手を取って城を後にした。
去っていく二人を眺める道化。彼は宴席に戻り、王に耳打ちする。何度も深く頷く王。
☆☆
森の中の小さな家。
灯りの漏れる窓からは、暗い表情の老父が椅子に座っているのが見える。
父に気付かれないように、粗末な平服姿のバヤヤが近づく。肩には水桶を担いでいる。
傍らでは、ドレスを着た三の姫が、不安気な面持ちで見守っている。
父親に気に入られるかどうか。あるいは、想像以上の貧しさに戸惑っているのか。
やがて、戸口から顔を出したバヤヤの姿を認め、驚く父。
続いて、息子が紹介したあまりにも美しい花嫁に、驚きと喜びを隠せない。
妻に続いて息子にも捨てられた、それも自分の責任だと思い定めていたのだから。
帰ってきたんだ! 安堵を胸に父に寄り添うバヤヤ。
そして姫もまた、舅となる人に身を寄せる。
ささやかな住まいに、広漠とした城にはない、暖かな空気が満ちるのを感じる。
この家を覆っていた暗い病の影は、もう見られない。
以上の、わけのわからないダイジェストのようなものは、
私というフィルターを通過して微妙に変形された『バヤヤ』である。
そういうことを観客をして為さしめるのが「萌え」というものだ。
「ある対象から受けた印象を触媒/素材として自分自身の物語を編むこと」が
個人的な「萌え」の定義で、それは古典的な「感動」とか「感情移入」と
似たようなものかもしれない。
その意味で『バヤヤ』は最上級の萌えアニメであり、三の姫は究極の萌えキャラである。
ということが、文章の馬鹿馬鹿しい長さと美文調から察していただけるだろうか。
『バヤヤ』の良さは、貧乏な若者が機転によって地位と富を手に入れる、という
いわゆる「逆玉」話ではないことにもあるだろう。
その点では東映長編『長靴をはいた猫』を超えている。
だから、三の姫と結婚したバヤヤが王族として取り立てられる、
というような後日譚は映画に登場しないし、その必要もない。
それがブルジョアを否定する社会主義リアリズムだとかいう話ではないのである。
ところで、宮崎駿は『バヤヤ』を観ているのだろうか。
東映なりアニドウなりの上映会で観ていてもおかしくはないのだが。
というのも、イメージボード版『もののけ姫』(映画版とは異なる漫画映画風の民話劇)が
『バヤヤ』とよく似ているのだ。
ヒロインは三の姫だし(「サン」の由来)、姫が魔物の生贄にされる展開といい、
何よりもののけが呪いを解かれて人間になったりしないところが、
「お城でいつまでも幸せに」的な通俗的ハッピーエンドを用意しない『バヤヤ』に
共通するものを感じるのである。
まあ、どちらも民話の普遍的な「話型」に基盤を持っているから、というのが正解だろうが
宮崎もトルンカも、ハリウッド的おとぎばなしの遠くにいるためかもしれない。
単純素朴でありながら、それゆえに人間の魂を深く宿す人形の造形が素晴しい。
とりわけ、ヒロイン三の姫の伏し目がちな表情は
彼女の神秘性、高貴さ、内気な性格の奥に秘めた情熱までも映しているように感じられる。
無論、それは作者ばかりでなく、観客の内面から分け与えられるものでもあるが。
トルンカの重要なパートナーである、ヴァーツラフ・トロヤンによる音楽が(『皇帝の鶯』も)
民族的な旋律とリズムを、可憐な歌と華麗なオーケストラで奏でて
映画の香気を一段と高めている。(03.08.31)
全銀河が銀河鉄道によって結ばれた遠い未来。
二人の兄弟と美しい母親の、しかし貧乏臭い一家が、雪に覆われた最果ての惑星で(地球?)
中華料理屋を(!)営んでいる。西武線の駅前商店街の外れにあるような感じの。
父親は外敵(正体不明)の攻撃から鉄道を守る鉄道防衛隊の隊長で、家にはめったに帰らない。
その父親が帰ってくる日、待ち切れない次男坊が――こいつがまたろくでもないガキで――
部外者の侵入を何人たりとも許さない駅のホームに不法侵入して出迎えようとする。
で案の定このガキ、軌道敷内に入り込んだあげく列車に轢かれそうになってたり。
結局父親に殴られることもなく(このへんが現代風の配慮)一緒に家に帰り、
父親の疲れを気遣うこともなく、キャッチボールしようとか言い出したりする。夜中に。
で父親も、出前手伝ったりする優等生の兄貴も、それに付き合ったりするわけだよ。ああうざい。
まったく久しぶりだってのに、子供は早く寝なさい!(母親の内心)
ところが帰ったその深夜にスクランブルがかかり、父ちゃんは召集される。
それを寝ていたはずの兄弟が見ていて、今度はカシコなはずの兄まで
父親の見送りとか言って駅への不法侵入に同行するんだな。
で、何の策もなしにホームに上がり、当然警備ロボットに発見され、
ロボットに追い回されて列車客室に逃げ込み無賃乗車。
動き出した列車の窓から宇宙を眺めてはしゃぐボンクラ兄弟。
で、次の場面でいきなり戦闘になってる。父ちゃんは頭から血を流してる。
宇宙空間に空いた穴(ワームホールとかなんとか)から頭を出した敵戦艦が列車に砲撃。
列車前部の武装車両(!)が、戦艦を水際で食い止めるべく必死で応戦するが
敵の戦力が優勢で苦戦を強いられる。このままでは乗客が危険だ。
ていうか何で戦闘車両の後ろに客車が付いてんのか謎なんですけど。かえって危険では?
このままではイカンてなわけで、父ちゃんは部下と息子たちを客車に移し
自分は機関車を切り離して敵戦艦に特攻を(!)かける。
で、父ちゃんの上司らしき松本美女が、超AIだか精神体だか知らないが唐突に出現し
機関車と一緒に突っ込むという(笑)。あんたが誘導すれば父ちゃん死なずにすむじゃん!
で、敵戦艦もろとも大爆発。兄弟は「男の生き様」をはからずも目撃することに。
中華料理屋で待つ母ちゃんに届く夫の悲報。泣き崩れる母ちゃん。
数年後、成長した長男が父と同じ鉄道防衛隊に志願。気丈に見送る母。
性懲りもなく駅に不法侵入して兄を見送る弟。
「今、万感の思いを込めて汽笛が鳴る」……999状態な別れの場面。
そして一年後。電話を取った母ちゃん、絶句、そして失禁、いや失神。
なんとそれは長男の悲報だった……。第一話なのに! 戦死につぐ戦死! 意外すぎ!
たぶんこの物語を70年代〜80年代初頭に観てたら、何の違和感も抱かなかったと思う。
「大宇宙」「男のロマン(美女/特攻)」そして「貧乏」が松本漫画の主要成分で
その組み合わせは新鮮でこそあれ、決して異様なものではなかった。
薄暗い四畳半のキノコが生えた畳に、あの円いメーターがくっついた画は、
まさにSFと貧乏の融合だったと言えよう。そしてそれは大きな魅力だったのだ。
それが、例えば『巨人の星』の「父ちゃんは日本一の日雇い人夫です!」を
私たちが今観て感じるのにも似た違和感となってしまうのは、70年代水準の緩い作劇や設定を
21世紀の作画技術で表現したために、かえって突っ込みどころが目立つせいでもあるが、
若いスタッフが松本ワールドに同化しきれていないことが大きいのではないか。
戦中派の、あるいは高度成長期の「貧乏からの脱却」という価値観を共有しない世代に
松本零士のロマンの世界は描くことができないのだと思う。
表面的なリスペクトや技術では超え難い壁がそこにはある。
山本映一や舛田利雄、豊田有恒、何より西崎義展というかつての同志たちは
その男のロマンに何ら疑問を感じることなく共感できたのだろうから。
ところで番組最後に「この続きはBSフジで放映中!」てなテロップが流れ。
ひょっとしてこれって「キラーコンテンツ」なのか。普及しないはずだよなあ民放BS。
何か自分でもどうでもいいことを書いてるなあ。と思いつつも書いたのは
橋本治『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件』を今読んでて、
1983年における橋本治の「ビンボーに対する怒り」に安直にも影響されたからだと思われます。
たぶん松本零士の貧乏臭さって、橋本治が忌避したであろう、
そして今の客が決して共感しない類のビンボーなんだよね。
ちなみに宮崎駿の成功は『となりのトトロ』以降の作品が
「貧乏のテーマパーク化」そのものだったからだと思われる。まァどうでもいいですけど。
メンドクサイんでもうやめます。おわり。<橋本治風エンディング (03.10.14)