浄土真宗 本願寺派 河久保同行の部屋

浄土真宗 本願寺派 河久保同行の部屋
浄土真宗のお葬式の誤解
ここでは、「浄土真宗のお葬式の誤解」についてご紹介します。
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仏教用語には、少し難読な言葉の読み方もあります。そのような文字につきましては、「ふりがな」が表示されるようにしております。次の図のようにアンダラインのついた文字にカーソルを合わせますと「ふりがな」が表示されますのでご活用ください。
「ふりがな」の表示方法のイラスト

[更新日:2004年11月13日]
スーツを着た男性がご案内する格好をしたイラスト
浄土真宗の場合、法名を位牌の形にはしないことになっています。
お仏壇にお参りしますと、法名が位牌の形になっているものをよく見かけますが、「本来の姿、形ではない」と言うことをご理解ください。
なぜならば、位牌とは「死者の霊を祀る」ためのものだからです。
まず、私たち浄土真宗の門徒は、死者の霊を祀りません。それは、「死者が霊として残る」と言う考え方をしないからです。
また、位牌とは「位(くらい)の牌(ふだ)」と言う意味を持ち、平等を説く仏教に、「位(くらい)」などの差別があってはならないからです。
法名は過去帳に記載しましょうと書かれたイラスト
ただ、葬儀で白木位牌に故人の法名を書き、荘厳壇(葬儀壇、祭壇)に設置していますが、あれは、葬祭業者が白木位牌しか用意していないためで、あくまでも「便宜上のもの」なのです。
白木位牌は、「位牌」とは呼ばないで、単に法名を書いた札(ふだ)として、「法名札(ほうみょうふだ)」とでも呼べばいいのです。
ご門主さま、もしくは、所属寺のご住職が書かれた法名を保存すれば良いのですから、葬祭業者が用意した法名札白木位牌)は、火葬場でお棺の中に入れて焼却してしまえばいいのです。
浄土真宗の本願寺派(西本願寺)では、故人の法名を位牌に記載するのではなく、過去帳に記載されることをお勧めしています。
自分の不幸は「お仏壇の中の位牌をぞんざいに扱かったため」としか考えられない人は、そのこと自体が不幸です。
( ぞんざい = 物事の取り扱いが、いいかげん、粗略、乱暴なこと )
亡くなられた親兄弟、ご先祖の方々は、私たちを生み育て、ひいては、阿弥陀如来さまの教えに遇わせてくださった先達者です。その意味で「諸仏」と呼ばれます。
お内仏(お仏壇)の過去帳にその法名を記載する意味は、「諸仏恩恵報いる証」であり、形の上からだけでも、「祖霊崇拝位牌」とは区別をつけたいものです。
浄土真宗では、出棺の時に茶碗を割る必要がありません。
枕飾りにおいて、他宗派を信仰する親戚などと一番トラブルになるのが、この「一膳飯」です。
一膳飯」とは、故人が生前に愛用していたお茶碗に、ご飯を山盛りにし、を突き立てた異様なお供えです。
そして、この「一膳飯」は、出棺の時に「故人が生前に愛用していたお茶碗を地面に投げつけて叩き割る」と言う、さらに異様な行為につながります。
なぜこのようなことをするのかと言うと、「故人の霊魂は、そのへんの空中をフワフワしていて、時には元の住まいに帰り、故人が生前に愛用していたものにとりつく」と恐れられていました。
さらに、死後すぐ「死霊」となった者は、霊魂としてのはたらきが生々しく、新霊(あらたま)=荒霊(あらたま)であり、「荒れて人々に害を及ぼすから」と言うのです。
そこで、故人が生前に使用していたお茶碗を受け皿にし、を目印にして、とりついた霊魂を出棺にあたって追放し、家へ迷って帰ろうにも帰れないように、「もう帰ってくるな」と、故人の茶碗を割ってしまうのです。
しかし、おかしいことに「帰ってくるな」と言っておきながら、お盆には「帰って来い」と言うのは、ずいぶんと身勝手ではないですか。
これは、元々仏教とは関係のない「日本古来の霊魂観」に基づくもので、しかも、「あらたま」と言う語呂合わせだったり、追放したり、迎えたりと、よくよく考えれば実にくだらないことです。
それに、「故人が生前に使用していた」と言うことであれば、故人の部屋自体を壊したらどうですか。
つまり、友引などと同じように、「故人が迷わず成仏してくれ」と言いつつも、自分に災い(禍)が起こらないようにしているだけです。
宗教とは、そのような「おまじない」をするものではなく、故人までも自分の災い(禍)の種にしてしまっている私たちに、真実の見方、考え方を教えてくれるものなのです。
葬儀が宗教儀式である以上、亡き人を通して、そんな自分の姿を見つめ、真実に目覚めたいものです。
◇ 清め塩は、故人につば吐くような無慈悲な行為です。
日本では、古来より「死は穢れたもの」として、「死穢」をことのほか忌み嫌いました。
そもそも、塩とは「調味料」であり、人体を維持していく上で「欠かせぬ食品」であると同時に、食物の保存に重要な役割を担ってきました。
冷凍食品が普及する少し前まで、保存食といえば、塩漬けか、干物に限られていました。
つまり、清め塩には、死体の腐敗を防ぎ、死臭などを防ぐ効果が、「おまじない」として残っているのです。
ちなみに、神棚(浄土真宗では必要ありません)に白い紙を張るのも同じことです。神様が「死穢」を嫌われるからです。
塩を撒くと言う習慣は、そうした中から出てきたようです。
現在は、会葬者に振り掛けたり、「清め塩」と言う小袋を渡してこの行為に代えていますが、本来なら、ご遺体に振り掛けなければ意味のないことぐらい、少し考えればわかることです。
所詮、世間で行われているおまじないなど、この種の行為を大まじめにやっているだけのことです。
それよりも、生前に縁の深かった方の葬儀に参列し、手を合わせながら、一方で「穢れたもの」として「お清め」していくことに、何の疑問も感じないことの方が不思議です。
私たちは、誰しも死に対する「怖れ」や「悲しみ」を抱えております。そうした「怖れや悲しみから逃れたい」と言う心が、「お清め」と言う行為につながるのでしょう。
しかし、本当に「穢れたもの」として「お清め」することで、「怖れ」や「悲しみ」は解決されるのでしょうか。浄土真宗、いや、本来仏教では、死を穢れとして受け止めることは決してありません。
浄土真宗では、正しい教えを聞き、私たちの逃れることのできない「死」と言う事実を正面から受け止め、見つめていくことこそが、「今生きている私たちの生をも充実させることになる」と教えられています。
「お清め」と言う行為は、亡き人をおとしめるばかりか、私たちの生をも見失わせることになる迷信であり、「一切不要なもの」なのです。
◇ 死者を不吉なものとして扱う時代は終ったのです
あなたは「早く元気になって」と願った方に対して、医師から臨終の宣告を受けた途端に、その願いも忘れて塩をまくのですか。
そのときまで握っていた手を「ケガレている」と振りほどくのですか。
よく考えてみてください、「お父さん」、「お母さん」と呼んでいた存在が、亡くなった途端に、祓い清めなければならない「ケガレた存在」にでもなってしまうのですか。
死をケガレとみる思想(清め塩)は、このように極めて非合理的なのです。
◇ 友引とは、実体のない言葉だけの迷信です。
葬儀の日取りを決めるのに「友引」を避けるなど、今もなお、日の良し悪しを問題にする根強い風習がありますが、仏教とは全く関係のないことです。
大安、仏滅、友引などの六曜とは、中国の占いが日本に入って変化したを作る方法(暦法)です。
「友引」は、元は「共に引く」と言うことで、「勝負なし」を意味するものでしたが、後に、「死者が友を引き、さらに死人が出る」と言う語呂あわせから、「この日に葬儀を出してはいけない」などと言う俗信となりました。
ところで、死亡診断書の死亡原因が「友引の葬儀に参列したため」と言う人を聞いたことがありますか。
この俗信を守り通すのなら、先勝(午前吉)、先負(午後吉)、赤口(正午吉、午前凶、午後凶)なども守るべきでしょう。
しかし、G7やサミットなどのような国際会議が、「仏滅(すべてに凶であるとする日)」や「赤口(正午吉、午前凶、午後凶)の午前中」だとしたら、日本はどうなるのですか?
人を救うはずの宗教が、これでは逆に人を束縛、または、不安にしてしまい、何のための宗教なのかわかりません。まさに、「人の心を迷わす信」でしょう。
結局、故人が迷わず成仏するための葬儀(浄土真宗ではそんな考えはありません)と言っておきながら、「さらに友を引く」などと、故人でさえも災い(禍)の原因にし、「自分さえよければ」と願う私たちの方こそ、実は迷っているのではないでしょうか。
むしろ、故人の葬儀を通して、どこまでも自己中心的な自分を見つめ直し、真の道理に目覚め、迷信に振り回されるのではなく、そこから解放される精神的基盤を与えてくれるものが「仏教」と言う宗教であり、葬儀が宗教儀式としての意義を持つのではないでしょうか。
「友引の葬儀は友を引く」などと、まことしやかに言いふらされていますが、「死を恐れる人の心の弱みにつけこんだ語呂合わせ」と言うことをご理解ください。
◇ 六曜記載、人権配慮欠く 大津市が手帳全面回収
大津市職員互助会が昨年末に発行した2005年版職員手帳に「大安」や「仏滅」などの「六曜」が記載されていたことを、人権団体が「不適切だ」と指摘、発行済みの約3800冊を近く全面回収することが2月11日、分かった。
大津市人事課によると、「日柄の良しあしと関連付けられる六曜は非科学的な迷信」などとの理由で、人権問題に配慮して1990年版から六曜の記載をやめていた。
昨年初当選した目片信市長が「国会議員の手帳には六曜があり便利。職員手帳にも記載してはどうか」と提案。復活したが、自治体によっては「結婚式は大安吉日に」といった迷信や因習で生活を縛ることは差別など人権侵害につながるとし、人権教育で啓発しているケースがあるという。
大津市人事課は「人権啓発の主体として配慮に欠け反省している。職員には再度、人権研修したい」としている。大津市は手帳を修正し再発行、旧手帳を回収、焼却処分する予定。
手帳は約200万円の費用をかけて作成。職員は無償で市民も1冊510円で購入できる。
[2005年2月11日 福井新聞]
一般には、「死者を成仏させる」とか「死者をお浄土に導く」と言う意味で、「引導を渡す」と言われるようです。
しかしながら、浄土真宗の僧侶は、引導を渡しません。
ですから、引導を渡さないとなると、「成仏しない」と言うことになるようです。
ところが、「引導」の本来の意味は、死者ではなく、「生きている人々を正しい仏法に導く」と言うことです。
僧侶も人間です。世間で考えるような「死者をお浄土に導く」という、超科学的な力を持っている訳ではありません。
むしろ、亡き人の死を縁として、言い方を換えれば「亡き人が遺された者に仏法に出遇うきっかけを与えてくださった」とか、「亡き人が仏法に導いてくださった」と言えるのではないでしょうか。
つまり、本当に引導を渡すのは、「諸仏になられた亡き人」といえるでしょう。僧侶は、そのお手伝いをしているのに過ぎないのです。
では「誰が亡き人を成仏させてくれるのか」と言うと、それは、阿弥陀如来さまが、老若男女、貴賤貧富の差別なく、全ての人を救ってくださるのです。

原本作成日: 2001年9月28日; 更新日: 2004年11月13日;
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