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等伯画「松林図」にみる能登の風景
ー 日本海沿岸の原風景を求めて −
H.Touhaku's "Shourinzu" and NOTO Peninsula's Scenery
-A Study on Original Scenery in the Sea of Japan Districts-
市川秀和
福井大学工学部
要 旨
近世・江戸初期の成立とされる「日本三景」の松島(太平洋)・天橋立・宮島(瀬戸内海)を見る
ごとく、海で囲まれた弧状列島日本の国土の最も特徴のある自然風景とは、「海辺の風景」であろう。
さらにこれらの三景は、それぞれの相異なった自然環境にあって、「海辺の風景」の多様な展開を見せているのである。かかる日本各地での変化に富んだ「海辺の風景」のなかで、日本沿岸の「雪国地域」のものには、長く過酷な「厳冬の荒海」に見られる風雪によって彩られた、他にない独特な風光が開かれている。
先の本誌第5号に記載の拙稿「能登半島の風土と埴生 ー風景論への一つのアプローチー」では、能登半島を具体的な対象として、その特有な歴史・風土・埴生から読み取れる「生きられた風景(海辺の風景・木立の風景)」を多角的に考察し、また敢えて「風景の品格」という風景論上での一つの本質概念についても論及した。これに続く本稿では、さらにかつて「裏日本」と呼ばれた日本海沿岸の雪国地域における「海辺の風景」の原型を求めて、近世の桃山時代を代表する長谷川等伯(1539−1610)がふるさとの能登七尾を下地にして描いたと言われる畢竟の大作「松林図」(国宝)に着目し、能登の風景が有する魅力からよりいっそう考察を深めたい。
1.はじめに −「風景なるもの」の世界ー
西洋世界における自然美を讃えた風景詩や風景画の誕生が、近世初期ルネサンス以降であることを考えると日本を含めた東洋世界ではそれよりも遥かに古い歴史を有している。「人間と自然(環境)
との関わり」が人類史以来のこととはいえ、「風景美(=自然美)の認識」が「自然観」の確立とともに徐々に定着して、やがて人間の創作活動(詩歌・絵画等)による「風景の創造・発見」へと至る歩みには、東西世界それぞれの地域において顕著な相違が読み取れるのである。
日本人にとっての風景美の認識なり創造は,古代の万葉時代にまで遡るであろう。例えば、古代の詩歌にみられる「歌枕」とは、詠まれるべくして選定された名所・地名のことであって、その特有の場所性に基づく自然美の風景イメージが明瞭に創り出されていた。そしてこの後も詩歌による風景賛美はさらに活発となって継続し、中世の西行法師や近世の松尾芭蕉に到っては最も創造性豊かとなり、そして近・現代にまでもその創造精神は、一つの伝統となって受け継がれているのである。
また、古代から中世にかけて大陸から仏教画・水墨画が盛んに受容されるなかで、日本的な詩的抒情性を表出する「やまと絵」が徐々に成熟するようになり、殊に近世初期の雪舟に見られる風景美への創作意欲は、宗教思想とも深く通底しながら秀逸な風景画を数多く誕生させた。なお本稿で着目する長谷川等伯を中心とする長谷川派は、当時の主流の狩野派と競い合って、雪舟以降の桃山画壇の栄華を生み出した。さらに近世後期の葛飾北斎や歌川広重などの浮世絵版画 1)には、全国の主要街道沿いの美しい四季の風景が取り上げられ、また名所図会 2)や名所八景 3)なるものも数多く描かれた。
さて、以上のよう古代以来の風景創造の豊かな歴史を有する日本において、その国土の多様な自然美を最も象徴する「原風景」あるいは「風景なるもの」とは、いったい如何なるものか。
なお、いま見てきたような日本の歴史上における豊富な風景美の具体的創作事例から、「原風景」あるいは「風景なるもの」を探究しようと試みるとき、まずどれを考察対象に限定することが適切な考察手順なのか、全く当惑せざるを得ない。つまり、これまでの豊かな詩歌や絵画の創作上に現れた風景の多様性とは、「風景なるもの」自体の多次元な性格を示唆していよう。さらに、「風景」の言葉に対して我々は、通常身近で親しみを持って使っているものの、あらためて一度その意味なり概念について考え踏みとどまると、実はとても曖昧なままに済ましていることに気づかされる。これは「風景」が見る者の主体的な眼によって現象することを示唆しており、従って「風景なるもの」とは、実に多次元な意味の世界なのであろう。故に、「風景なるもの」を問うに当たっては「客体」としての考察対象をどれに限定するかということよりも「主体」として考察視点あるいは問う者の立場が、何より重要であるといわねばならない。
そこで、あらためて日本の豊かな自然美を最も象徴する「原風景」あるいは「風景なるもの」を探求する上で「人間と風景」の完全な隔離を前提とした二元的な対比構図で捉えるのではなく、両者の実存的な繋がりから現象する事態に注視して、その風景現象の根源様態そのものを捉えることに努めたいと考える。そしてその具体的な対象を能登の「海辺の風景」に求めたのが、先稿であった。
その先の本誌第5号に記載の拙稿「能登半島の風土と埴生 ー風景論への一つのアプローチー」においては、能登半島に特有な歴史・風土・埴生から読み取れる「生きられた風景(海辺の風景・木立の風景)」を多角的に考察し、「風景なるもの」をめぐって「風景の品格」という風景論上での一つの本質概念から考察を試みた。従って、かかる視座を引き継ぐ本稿では、能登半島から日本海沿岸域へと視座を拡大しその長く複雑な海岸線に展開する「海辺の風景」の原型、つまり「日本海沿岸の原景」への探求を試みたい。
近世の江戸初期に成立した「日本三景」の松島(太平洋)・天橋立(日本海)宮島(瀬戸内海)に見られるように 4)、「海辺の風景」への着目とは、四方を海で囲まれた弧状列島日本の国土の自然風景美を捉える上でも最も適切であるとともに、日本海沿岸の雪国地域に限定することで、いっそう特徴ある「海辺の風景」が読み取れるであろうと考えるのである。さらにその上で、能登の風景が有する魅力を今一度探求する手がかりとして、近世の桃山画壇を代表する長谷川等伯
(1539-1610)が、その晩年に、ふるさとの能登七尾にみる「海辺の風景」をイメージして描き出した、畢竟の大作「松林図」(国宝)を取り上げたいと思う。なおこの名画には、「しずかなる絵」を一貫して求め続けた等伯の辿り着いた神聖な思想性の溢れる境地が遺憾なく表れているとともに、妻子を失った悲しみのなかに孤独と向き合う等伯という一人の人間の境涯も秘められていると言われている。
よって以下の本稿では、かって「裏日本」と呼ばれた日本海沿岸域とその「海辺の風景」の原型を考察した上で、等伯画「松林図」から能登の風景をさらに探求するとともに、「風景なるもの」の多次元な世界の真相を存在論的に問うこととなろう。
2.「裏日本」の地理空間と日本海沿岸の原風景
では、本題の長谷川等伯画「松林図」にみる能登の風景を論及する前に、能登を含めた日本海沿岸地域がかって「裏日本という一つの地理空間で把握された風景論上での問題点や、さあらにその自然風景美を最も象徴する「海辺の風景」について、若干の考察を試みておきたいと思う。
2-1.)「気多政治圏(古代・中世)」から「裏日本(近代)」へ
能登を含む日本海沿岸地域とは、かって古代中世の時代において、日本海をめぐる朝鮮半島とその背後の中国大陸、そして東南アジア諸地域との政治・経済・文化交流の表舞台であった。この詳しい史実とその考察については前稿にて触れたので敢えて繰り返すまでもないが、ただ太平洋側に位置した中央政権による全国統一支配が古代末期以降に強化されると、日本海沿岸地域のなかでも、殊に「コシ地域郡(現・北陸地域)と「イヅモ地域郡(現・山陰地域)には、古代以来の独自な政治文化圏が形成していただけに、ヤマト・カワチの王権に対して全面的に即時服従したのではなかった。この両地域郡は、一時的であれ、「日本海地域国家連合」ともいうべき「気多政治圏」を新たに誕生させる連鎖的動きを起こしながら抵抗し続けていた、と現在指摘されているのである 5).
ここから、環日本海交流の独自な歴史を有する日本海沿岸地域のコシとイズモの両地域にとって、海辺という場所は、対岸からの異国の客人を迎える交流の場であり、また広大な海の彼方に開かれた常世へ向けて祈る信仰の場であり、さらに海からの自然の恵みが打ち上げられる生活の場であった。かかる主体性ある歴史と文化が重層する場所性を秘めた「海辺の風景」とは、その特異な自然地形の美しさをも働いて、日本海沿岸地域を象徴する風景と言ってよい。しかし、明治以降の太平洋沿岸地域が近代的発展を遂げて日本の主導的先進地帯を確立するのに対し、コシやイズモの日本海沿岸地域は、交通不便な後進地帯という近代的価値観から「裏日本」の烙印がおしつけられたのであった。
2-2.)「裏日本」の地理空間と日本近代の風景論 6)
明治以降の自然科学技術の導入は、それまでの列島日本の国土空間の認識を一新させたのである。近代地理学・地質学・気象学の視点は、日本海側と太平洋側との相違を、それぞれ「裏」と「表」に二分するという地理空間論を定着させた。さらにかかる二分論に社会的経済的発展の地域格差を重ねて、後進の日本海側を「裏日本」、先進の太平洋側を「表日本」と対概念にして使用した最初の例を明治28年(1895)年発行の矢津昌永著『中学・日本地誌』(丸善)から確認されるのである 7)。この前年に出版された著名な滋賀重昂『日本風景論』(政教社)にも、その国土二分論の影響が明瞭に現れており、それには自然地理と人文地理の内容を含む詳細な21項目からなる対比構成されていた。
(表・1a,b)
表・1a)滋賀重昂『日本風景論』(1894)における「日本海岸」と「太平洋岸」の比較(自然地理) 日本海岸 太平洋岸 傾斜急劇なる所多く懸崖も多し 傾斜急劇なる所少なく懸崖も少し 屈曲少し、故に短 屈曲多し、故に長 風位は規則正しい 風位は変化あり 冬季は強半西北風吹く 夏季は大概南東風吹く 冬季は湿気多く、夏季乾燥す 夏季は湿気多く、冬季乾燥す 太平洋岸より晴天少し 日本海岸より晴天多し 気圧は概して太平洋より強し 気圧は概して日本海岸より弱し
表・1b)滋賀重昂『日本風景論』(1894)における「日本海岸」と「太平洋岸」の比較(人文地理) 日本海岸 太平洋海岸 在来交通の利便甚だ少し 交通の便利甚だ多し 太平洋岸中より人口少し 日本海岸よりも人口多し 日本歴史中の重要なる事件なし 日本歴史中の重要なる事件多し 発達進暢ぜず 甚だ発達進暢し、文化は此処に聚り
表・2)日本の海岸風景の三様式・脇水鐵五郎『日本風景の研究ー名勝の自然科学的考察ー』(1943) 様式 太平洋式 日本海式 瀬戸内海式 特色 石の色が白い(水成岩)
明るさ・暖かさ
女性的美しさ石の色が黒い(火成岩)
豪岩にして奇抜
男性的強剛味小規模に両形式を備える 地殻運動 隆起海岸
浸蝕と堆積が平衡状態沈降海岸
堆積より沈降がまさる不連続陥没 要素 長い砂浜
砂丘・砂嘴・砂州
松林・翠巒緑丘
農村・漁村の集落
眼界広い溺れ谷
洞門洞窟
柱状節理
断崖・絶壁
海岸線が垂直水平に複雑多島海
松林
農耕風景
岩山・禿げ山
海面が狭い(箱庭的)
漁船・帆船の往来典型例 下総の九十九里浜
駿河の田子の浦
駿河海岸
熊野の七里御濱
駿河の美保の松原兵庫の香住海岸
出雲の北浦
隠岐の白島海岸
佐渡の海府海岸
新潟の笹川流
天橋立瀬戸内海
天草島の一部
滋賀重昂の『日本風景論』 8)は、詩歌や名所図会の伝統的な風景観近代地理学の手法を融合した内容で、日本での近代地理学・黎明期を代表するものとして位置づけられるとともに、当時のナショナルリズムの思想性や登山奨励の山岳会との関係が従来より指摘されている 9)。その中でも殊に、全体の半分を占める「山岳風景」の記述に対して、「海辺の風景」は全く注目されていないのである。それは恐らく「裏日本」の別称(蔑称)を押しつけられた日本海沿岸を象徴する「海辺の風景」よりも、
「山岳風景」を日本の自然風景美の代表として論じる方が相応しいと判断したからでわなかろうか。
つまり「裏日本=海辺の風景」と「表日本=山岳風景」という図式が新たに創り出されたのであり、それを裏付けるかのように、これ以後の殆ど多くの風景論研究は「山岳風景」に偏重していくのであって
「海辺の風景」に日本風景美の特色を求めたのは、伊藤銀水『日本風景新論』(1910)や脇水鐵五郎
「日本風景の研究」(1943)など数少ない 10)、地質学者・脇水の『日本風景の研究』は、サブタイトルに「名勝の自然科学的考察」とあるように、地質学を背景に美しい海岸風景の造型を「太平洋式」「日本海式」「瀬戸内海式」の三分類で整理したもので、現在でも示唆深い内容である 11) (表・2)
2-3.)日本海沿岸の雪国地域にみる「海辺の風景」−「白砂青松」と「雪恋い心」− 12)
「海辺の風景」の美しさを最も表現した風景言語に「白砂青松」が知られるように、日本の「三大松原」として「三保の松原」(静岡)「気比の松原」(福井)「虹の松原」(佐賀)が有名であるほか、全国各地には松林が数多い(図・2・3)。また近年、「白砂青松 100選」(図・4)も選定されている。
このような日本列島の長い海岸線に沿った各地で、その多くの景勝地に古くから「松原」の名称が付けられてきたことは、単に松林の生態環境条件が整っていただけではなく、「松」を愛でて慈しむ精神性が、かかる海岸線の自然風景を保全して培ってきたからに他ならない。そして「松」は、厳しい自然環境にも極めて強靭である上に、四季を通じて緑の葉を絶やさぬ神々しい樹形を備えていることから、人々は永遠の神秘性を感じ取って、深い崇敬心をおのずと寄せてきたのであった。さらに、垂直に伸びて相並び続く松林の清々さに対して、海岸線に沿って水平に伸びる白砂の広がりは、単純で明快な青と白のコントラストとともに、清らかな空間性を開いているのである。かかる「白砂青松」と称賛されてきた「海辺の風景」を大切に維持してゆくことこそは、同時に風景の美しさを発見し、さらに風景を創造してゆく精神性を高める営みに通じていると思われる。
日本の長い海岸域に広がる「海辺の風景」には、さらに各地域の風土環境が働いて、より多様な様相を生み出している。殊に日本海沿岸の雪国地域に見られる「海辺の風景」には、太平洋側に比べて「男性的強剛味」(脇水鐵五郎 表・2)を帯びた独特な神秘性が備わっている 13)。それは、長く閉ざされた冬季での「厳冬の荒海」によって彩られた風雪が醸し出す神秘性とも言えよう。しかし雪国地域において「雪」はただ単に驚異の対象ではない。「雪」は来たる春の豊饒を告げる民俗宗教現象でもあり、また「雪」はその美しさと温かさから、忍耐強く深い心を育て鬢してくれるのである。雪国の土地には、「雪を恐れる心」とともに「雪を恋い待つ心」が息づいている。
さらにかかる雪国のなかでも「裏日本」と別称された北陸・山陰地域に開かれた「海辺の風景」には古来のコシ・イヅモの歴史風土性による主体的な精神性が脈打っており、ひときわ特徴ある固有な場所が創られているのである。このような風景にこそ、日本海沿岸の雪国地域での原風景を見ることが出来よう。
3.等伯画「松林図」にみる能登の風景 14)
いよいここから、桃山画壇の画聖とも讃えられる長谷川等伯の晩年の大作「松林図」(国宝)から、能登の風景の現象を探求しながら、さらに「風景なるもの」の世界を考え深めることとする。
3-1.)画面構成にみる作風と詩的抒情性
能登何七尾に生まれた等伯は、三十歳を過ぎた頃に上洛し、郷里の菩提寺・本延寺と関係深い本法寺に身を寄せながら、一心不乱に画道に励みさまざまな画法を瞬時に修得し、当時の画壇の主流であった狩野派」に全く見劣ることのないほどの優れた技倆を示すとともに、その人間性をも高めたのである。
そして等伯の全作品を見渡すとき、個人の制作とはとても創造できないほどの領域の広さに、ただ驚くばかりである。等伯の場合は、水墨画といっても羅漢図・達磨図・山水図・禽獣が・禅機画・道釋画と領域が広く、さらに着色画に到っても仏画・花鳥画・風俗画・肖像画・金碧画とまた多面的な分野に到っているのである。その数多い作品の中でも晩年の畢竟の大作「松林図」は、殊のほか印象深い作品として広く知られ、かかる等伯の多様な画技を遺憾なく見ることが出来るものである。
「松林図」をめぐる従来の評価については、「六曲一双のひろやかな画面に爽やかな朝露の中に静かに立ち並ぶ松林の姿を詩趣ゆたかに描き、自由な筆触と潤いに富む墨法は円熟した技法の冴えを示している」(土居次義)という絶讃が殆どであり、現在も何ら変わらない。ただこの名品は、あまりにも有名であるにもかかわらず、未だに解明できない不思議な魅惑を有しているのも事実であって、最近年はパソコン技術を応用した斬新な究明が進められている。
「松林図」の画面構成は、中央に広い空間を開き、上部から下部にかけて遠景と近景を徐々に表現配置した水墨画の伝統構図を完全に無視していると言われる。この作品は画面中央の白く雪積もてた遠山を中心とした集中構図を取り、かって松林を伸びやかで階調ある連続性で空間描写している。
このことは、西洋の遠近法に近い画面構成によって描かれているという評価から、日本絵画史上に革新的な表現を生み出したという歴史的位置づけも既に与えられている。
さらに、「松林図」の多様な表現描写については、「藁筆を烈しく上下に動かして濃墨の鋭い針葉を描くかと思うと、それを支える横に伸びる枝は意外に生々しく、その背後に見え隠れする淡墨の幹は、柔らかな側筆(筆の穂の腹で描くこと)で無造作に描き下ろす。かと思うとそれが地面に達すると突然濃墨のぬらりとした彼独特の鋭い仏画の線に変わって、松の根上がりを表現するのである。・・・全体として見ると、意外と柔らかな佇まいで、日本の風土にしっかりと根を下ろしている。」(橋本綾子)という適切な解説によって、その特色が指摘されている。
このように「松林図」は、写実性と抒情性、厳しさと柔らかさ、鋭い描線と幻想的な墨の広がりと、さまざまな相反する性格を備えながら、斬新な空間構成によって全体が一つに統一されている。そして作品全体が醸し出す不思議な神秘性を「しづけさ」あるいは「きよらかさ」と呼ぶとすれば、まさに晩年の等伯の境涯を物語っているように思われるのである。
近世の桃山画壇とは、狩野派に見られるごとく、「物語の視覚化」や「画面の装飾化」が一般的な傾向であったにもかかわらず、この「松林図」には、等伯という孤独な人間の「内面風景」が詩的抒情性を漂わせて表現されている。この意味からも当時の数多い作品と比較するとき、「松林図」が如何に特異な作品であったかを知るのである。そしてその等伯の内面に開かれた風景とは、ふるさと能登七尾の海辺の風景であった。
3-2.){能登の風景」と「境涯の風景」
等伯は、息子の久蔵を含む長谷川派を率いて、雄大な金碧画の大作「楓図」(国宝、京都・智積院)を見事に完成させている。この絵は、わずか三歳で没した豊臣秀吉の愛児鶴松を弔うための祥雲寺を飾っていた障壁画郡の一つなのであった。ところが、この完成直後に久蔵を亡くし、続いて妻も失った等伯の晩年は、孤独と向き合う心寂しい時であったと思われる。
こうした境涯にあった等伯が、「松林図」を描いたのである。このとき、ふるさとの能登七尾の海辺の風景が、瞬時のうちに内面深くに広がって、それを一気に表現したのではなかろうか。能登の厳冬の荒海を背景にして、雪の舞う清謐な白砂の地に根を下ろす松の樹形と林相が生み出す風景に、等伯の悲哀を堪えた内面世界がおのずと重なって映し出されたもであろう。その上「松林図」は、能登の風景を遥かに超え出て、「風景なるもの」の現象を詩情性豊かに示唆していよう。つまり「松林図」から
「海辺の風景」あるいは「白砂青松」の原型を見出すのであり、さらにこの風景こそ、人知を越えた世界が開かれているのである。
かかる「松林図」こそ、等伯の語る「しずかなる絵」 15)そのもでだったであろうか。これを清閑な実在の深処と見なし、そこから芭蕉が「西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於ける利休が茶に於ける、其貫道する物は一つなり」と述べた時の「其貫道する物=風雅のまこと」あるいは「禅の無」を読み取る指摘(倉沢行洋)がある。さらに、利休晩年の風貌を最も正確に伝えていると絶賛される「千利休居士像」を描いた等伯に、利休と同一の「わび・幽玄」の精神性を見出す指摘(唐木順三)もある。画聖と讃えられた等伯が、その晩年に辿り着いた境涯は「松林図」とともに、絶対的な無の風景であったのかも知れない。
4.おわりに −人間と風景 −
風景とは、それ自体で人間と何ら関係を持たずに存在しているのではなく、それを見る人間の実存的な繋がりに於いて、そこを根源として現象する。我々人間とは、自己の於かれた場所に限定されつつ、自己の境涯を生きるしかないものの、その事態に呼応するかのように「風景なるもの」は個としての真の自己の前にこそ開かれ現れるのであろう。人間と風景との関わりとは、我々の生きる生活世界そのもであるとともに、我々の人知を越えた絶対的な世界へも通じている。ここ「人間の風格」と「風景の品格」との繋がりあう意味が見いだせるわけである。こうした風景現象をめぐって、本稿では、日本海沿岸地域における「海辺の風景」を具体的なテーマとした上で、さらに能登の風景へと射程を絞ることから、等伯画「松林図」に着目してみたのであった。
註
1) 浮世絵版画の風景を景観工学から考察したものに、萩島哲(1996)『風景画と都市景観』理工図書等がある
2) 江戸時代には、名所案内や地誌を総称した「名所図会」が全国各地で出版され、例えば「江戸名所図会」や
「都名所図会」「東海道名所図会」「木曽路名所図会」「近江名所ず会」「摂津名所図会」など、そのほか
「都林泉名勝図会」もよく知られた。 最近年はこれらの復刻版も多く、また学際的な研究が盛んである。
3) 日本八景については、白幡洋三郎(1992)「日本八景の誕生」(『環境イメージ論』弘文堂)を参照されたい。
また日本各地の名所八景については、田中誠雄ほか(2000)「日本における八景の分布について」ランドスケープ
研究(日本造園学会誌)Vol.63No.3を参照のこと。
4) 「日本三景」の成立に関しては、中澤伸弘(1993)「日本三景攷」神道学155号などを参照されたい。
5) 「気多政治圏」について詳しいことは、浅香年木(1997)『北陸の風土と歴史』山川出版と同(1978)『古代地域史の研究
北陸の古代と中世1』法政大学出版局を参照された
6) 「裏日本」という近代的地理空間の成立と背景については、阿部恒久(1997)『裏日本はいかにつくられたか』日本経済評論
社から多大な示唆を得た。
7) これ以後、地理学の教科書を中心に日本海沿岸の「北陸・山陰地域」を指す別称(蔑称)の「裏日本」は広く普及し、ごく最 近まで使われていたものの、高度成長期を経た1960年代には差別用語として問題視され始めて、漸く70年代以降に到って 公的には全く使われなくなったのである。
8) 志賀重昂『日本風景論』は、岩波文庫と講談社学芸文庫から復刻版が出ていて、入手し易い。
9) 志賀重昂『日本風景論』がナショナリズムや山岳会と深く関係していたことに関しては次の文献を参照。
千田稔(1988)「風景のナショナリズム 志賀重昂と正岡子規」奈良女子大学地理学研究報告V
荒山正彦(1989)「明治期における風景の受容 『日本風景論』と山岳会」人文地理第41巻6号
山本教彦・上田誉志美(1997)『風景の成立 滋賀重昂と『日本風景論』』海風社
荒山正彦(1998)「風景論の系譜を研究する試み 明治前半期における国土空間の表象」関西学院史学25号
10) 志賀重昂(1894)『日本風景論』は明治のベストセラーとして反響は多大であり、これに続いて小島烏水(1905)『日本山水 論』隆文館も「山岳風景」を大きく取り上げた。日本風景美を代表するものとして「山岳風景」を捉える視座は濃厚に定着し てゆくものと考えられる。さらにドイツの林学者ザーリッシュ(1846−1920)による「森林美学」をこの頃に導入していたことも
山岳の森林風景の秀逸さを偏重する要因になったかもしれない。なお、「山岳風景」への偏重傾向に対抗した伊藤銀水
(1910)『日本風景の研究』前川文栄閣は、「日本に於ては、山嶽美よりも海岸美を優れりとなす」と主張し、これに脇水鉄五 郎(1943)『日本風景の研究』が続いた。
また今日広く読み知られた樋口忠彦(1981)『日本の景観 ふるさとの原型」に着目してみると、「日本の景観んも原型」と は, 「盆地の景観」 「谷の景観」 「山の辺の景観」 「平地の景観」という四分類によって明らかに特徴づけられると解かれ ている。それは、日本国土の備えた豊かな「自然地形」とそこに住み込んだ「人間生活」との見事な調和にこそ、日本の原 風景が見出されるというのである。ここで選定された「自然地形」とは、急峻な山並みのなかの盆地や急勾配の河川に開か れた扇状平野など、内陸部の地域が主な対象とされており、海岸線の地域は殆ど取り上げられていない。つまり山や谷の 麓での人間生活の風景に日本のふるさとの原型を見たのである。しかし何故、周りを海で囲まれ、三万キロを越える海岸 線をもつ列島の日本で、何故に、「海辺の風景」が「ふるさとの原型」の一つとして着目されていないのであろうか。
さらにオギュスタン・ベルク(1988)『風土の日本』や千田稔(1992)『風景の構図』、阿部一(1995)『日本空間の誕生』にお いても「海辺の風景」は特に大きく取り上げられることなく、山岳風景から日本古来の宗教的世界観を読み取った上で特有 な風景構造を見出しているところが共通しているようである。
なおこのほか、造園学の分野では、大正末から昭和初期にかけて、国立公園制度の発足という事情もあって、田村剛に よる『造園学概論』(1925)『森林風景計画』(1929)『風景の驚異』(1932)や、上原敬ニによる『造園学汎論』(1924)『日本風 景美論』(1943)では、日本の多様な自然風景美を総合的に体系づけて論及している。
11) 脇水については、赤坂信・石川忠治「脇水鐵五郎の風景論」ランドスケープ研究Vol..59,No.5,p13-16を参照
12) 「白砂青松」あるいは松の芸術性については、以下の文献を大いに参照させていただいた。
金井紫雲(1946)『松 其の芸術との関係について』芸艸堂出版/高嶋雄三郎(1975)『松』法政大学出版局
有岡利幸(1994)『松 日本の心と風景』人文書院/『is No.73 特集白砂青松』(1996)ポーラ文化研究所
13) 日本海沿岸の雪国地域における独特な歴史・風土・文化については、市川健夫(1980)『雪国文化誌』日本放送協会出版 協会のほか、高田宏(1987)『雪恋い』新宿書房や同(1997)『雪を読む 北越雪譜に沿いながら』大巧社、さらに雪国の視 座偏(2001)『雪国の視座』毎日新聞社などを参照されたい。
14) 等伯画「松林図」については、次の文献から多大な示唆を得た。
唐木順三(1963) 「長谷川等伯と利休」『千利休』筑摩叢書
山岡泰造(1964) 「等伯筆 「松林図」の作風について」美学第59号
倉沢行洋(1992) 「第十章 金碧と水墨」『増補 対極桃山の美』淡交社
河合正都(1993) 「長谷川等伯 「松林図屏風」再考」博物館学年報第25号
橋本綾子(1994) 「この一枚 松林図屏風」 『水墨画の巨匠 第三巻 等伯』講談社
15) 「しづかなる絵」とは、『等伯画説』に見られる有名な一節である。「等伯画説」とは、等伯が話した賀道に関することがらを 本法寺の日通上人が書き留めたもので、それは日本絵画史上において極めて稀な貴重資料であり、その活字版として 源豊宗考註(1963)『等伯画説』和光出版社がある。
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