鶴彬あるいは俳の精神のこと(青年のための俳句学校G)
この原稿を3.8朗読火山俳のオープニングで朗読しました。
島田牙城
鶴彬という川柳作家がいた。
手と足をもいだ丸太にしてかへし
若い諸君はこの一行から何を思い浮かべるだろうか。何かの「手と足をもい」で「丸太にし」た誰かがいる。そしてその丸太を誰かまたはどこかに「かへし」たのだ。この一行はこれだけしか述べていない。あとは読者たる僕たちが想像力を働かせて読み解く以外にない。この「何か」「誰か」「誰か」「どこか」という四つの「?」を解き明かすヒントは、この句の作られた時代背景にある。一九三七年、昭和十二年作。太平洋戦争勃発以前だから、戦争のことではないね、と思う人も多いと思う。それほどに昭和の戦争は風化している。昭和の戦争のことを「第二次世界大戦」や「太平洋戦争」とイコールで覚えている人は案外多い。それ以前の日中戦争が忘れられているのだろう。真珠湾攻撃をした昭和十六年十二月八日はアメリカへの宣戦布告の日にすぎないのであって、日本はそれ以前、昭和六年から戦争をしていたのだ。この句の作られた翌年一九三八年は小説「麦と兵隊」で知られる徐州戦線の年でもある。日中の戦闘は長期化し、光明が見えない泥沼化を始めていた。そう。この鶴彬の川柳は、戦争という
鶴彬。つるあきらと読む。一九〇九年に生まれた彼は、一九二四年、十五歳から川柳を書き始める。僕は鶴の初期作品の流麗犀利な筆致が好きだ。
半球の闇を地球は持ち続け
一枚の畳、一瞬、蠅、六
さやのなき刃いつしか人を切る
どれも十七歳の作品である。それが、翌十八歳にして一転、地をもがき這うような筆致へと代ってゆく。
溺死者の続く思想の激流よ
米つくる人人、粟、ひえ食べて
この年、鶴は大阪へ出て町工場の労働者となっている。そこで「人」を見たのである。先の三句には人はいない、あるいは人の影が薄い。反して後の二句には人、それも敗者・弱者がいる。川柳を詩の神秘へと高めるのか、一個の人間の叫びを掬う器とするのか、鶴は迷わず後者をこのとき選択したのだった。たった十七音でなしうる仕事、それはどこまでも泥臭く、一人の人間の生の声をぶつける作業なのではないかと、鶴は大阪での生活で感じたのではなかったか。鶴はこの時、下手な作家たらんと覚悟したのだと僕は思っている。人一人の真実に迫る時、作家の筆は流麗であったり犀利である必要はない。掴み取った真実をどすんと鉈を振り下ろすごとくに叩きつければよいのである。鶴の文学をプロレタリア文学の中に位置づけるむきがある。鶴はたしかに共産党活動をしているし、労働者階級の解放を叫ぶ作品も書いているけれど、僕はこの捕らえ方が好きになれない。そうではなくて、鶴は俳の人なのだという視点でその作品を読むことはできないのだろうか。俳の人は道化る。道化て何をするかというと、例えば鎌倉時代などには帯刀の役人の足元へ直訴状を落とす。落書である。例えば明治維新には「ええじやないか」を踊りながら東海道を江戸までも上ってしまう。そして鶴彬はというと、戦況が逼迫し、経済状況も悪化するなかで、特別高等警察が当然読むであろう雑誌に人身売買を詠い、反戦を詠って検挙されるのである。鶴は「手と足を」の句を発表した直後に逮捕されている。
一叩人という人の紹介する平林たい子の書きのこしたエピソードは、愉快である。
万歳と挙げた手を大陸に置いてきた
という作品を挙げながら、平林は自伝『砂漠の花』に、「その川柳を特高室ではじめて見せられた時には、思わず自分の憂鬱を吹き飛ばして大笑いした」と記すのだった(『反戦川柳人・鶴彬』一叩人編著・たいまつ社)。平林もまた特高に捕まって留置場生活を余儀なくされていた。平林の笑いは「よくぞこの時期にこんな句を堂々と発表したわね。捕まるのも当たり前だわ」という笑いである。「およそめずらしく、のんびりしたものであった」と平林は鶴の鈍感ぶりを笑ったのだ。鶴にしてみれば、この平林の笑いは本望だったのではないだろうか。とことん真実を書くということで道化通した川柳人生を平林の笑いこそが讃えたのではないかと思う。
川柳とはなにか、俳句とはなにか、ということが時々問題になるけれど、ともに俳諧という親の子なのだから、二つを絶対に分けるなにかを見出すことよりも、双方に流れる同じ血は何なのだろうと考えて見ることのほうが有益な気がする。そして見えてくるものは「俳」の精神である。
一九三五年(二十六歳)東北飢饉身売り続出 共産党壊滅
涸れた乳房から飢饉を吸うてゐる
凶作の村から村へ娘買ひ
みな肺で死ぬる女工の募集札
一九三六年(二十七歳)二・二六事件、阿部定事件
修身にない孝行で淫売婦
待合で徹夜議会で眠るなり
半島の生まれでつぶし値の生き埋めとなる
一九三七年(二十八歳)南京事件、徴兵の身長基準引下げ
蟻食ひの糞殺された蟻ばかり
骨壷と売れない貞操を抱へ淫売どりのくるふ歌
手と足をもいだ丸太にしてかへし
一九三八年(二十九歳)鶴彬死去
鶴彬は、俳句を作る俳人のだれよりも律儀に、「俳」を通した川柳人であつた。その功績は、燦然たるものである。以上