無季俳句のこと
@季語
島 田 牙 城
俳句とは何を詠うものなのだろう。たとえば「花鳥諷詠」という言葉がある。「人間探求派」というくくり方がある。「社会性俳句」という論争もあった。「新興俳句」とか「前衛俳句」という運動もあったけれど、この二つの呼び名には「何を詠うのか」の「何」は書かれていない。前の三つにはその「何」が明らかだ。「花鳥」であり「人間」であり「社会」というぐあいに。では、
去年今年貫く棒のごときもの 高浜 虚子
に「花鳥」を感じるか。
鶴の毛は鳴るか鳴らぬか青あらし 加藤 楸邨
に「人間探求」を感じるか。
塔二つ鶏頭枯れて立つごとし 沢木 欣一
に「社会」を感じるか。
それぞれ、「花鳥諷詠」「人間探求派」「社会性俳句」というキャッチフレーズの代表作家の記憶されるべき作品である。もちろんそれぞれのキャッチフレーズにはそれぞれの功罪があり、「花鳥諷詠」には哲学的な思想までもを読み取ろうとする評者すらいるのだから、それぞれの運動は運動としてきちんと考察されなくてはならない。しかし、どうも俳人の多くは、こうしたキャッチフレーズに囚われすぎるきらいがある。僕にしたって、「自覚的庶民の目線・抵抗精神」などと言っているけれど、では僕の作品のどこがそうだと問われたら困る。
俳句で詠う対象は、一切限定されていないということだ。
ただし、俳句には季語がある。季節限定の言葉のことで、名句といわれる俳句の九割以上に季語が用いられている。
では、季語とは何なのか。これは挨拶の言葉である。例えば手紙の一行目、私たちは必ず季節の挨拶を置く。「仲秋の候」とか「立冬を迎え」とか。
俳句はもともと、俳諧の発句であった。歌仙を始めとする連句を巻く時の第一句目であった。この第一句目は、句座に招かれた客人から主への挨拶として詠まれた。この挨拶の言葉としてもっとも有効なものが季節の言葉だったのである。「今日は冬にしては暖かですね」「来る時に山茶花を見ましたよ」。
俳句で季語が高く意識されるわけは、以上のことに尽きる。
だから俳句では、季語の使い方の優劣が作品の優劣を分ける。季語が俳句のキーワードなのだ。私たちはより深く季語を理解することに努めなければならない。右の三句は、どれも季語を有している。有季俳句である。「去年今年」は「こぞことし」と読んで新年。「青あらし」はもちろん「青嵐」で夏。「鶏頭」は秋である。大切なことは、どの作品も季語が添え物ではないということだ。
僕は、有季俳句においては季語こそが中心でなくてはならないと考えている。挨拶をする時にその挨拶の中心となる言葉がおざなりであってはならない。季語を借りて作家の思いを伝えるという俳句感もあるようだが、僕はそういう考えには立てない。季語という特殊な言葉に真っ向立ち向かうのでなければ、有季俳句を作る意味はない。桜を借りて儚さを詠うのではない。桜を詠うならば桜の真というものを作家の全人格を持って発見しなおし、新たな桜像というものを読者に提供するという姿こそ、有季俳句の作家の取るべき姿であると思っている。
現代俳句がどうにも軽くなってしまった原因はここにある。季語が添え物なのだ。または、季語が充分には吟味されないままに使われているのだ。例えば右の楸邨の作品を読もうか。「鶴の毛は鳴るか鳴らぬか」というなんだか突飛な疑問と「青あらし」との衝突が一つの不安感を描き出している作品だ。ところで、楸邨は「鶴の毛は鳴るか鳴らぬか」という疑問を言いたいために「青あらし」を利用したのだろうか。僕はそうは読まない。「鶴の毛は鳴るか鳴らぬか」という一見突飛そうでいて実に繊細な不安感と、それをどうどうと受け止めた「青あらし」には主従の関係はない。「鶴の毛は鳴るか鳴らぬか」という不安感と、その後の夏の充実を約束する「青あらし」という季語がまさに衝突することによって、「青あらし」が新しい顏になったのだと僕は読む。
極論すれば、有季俳句というものは、それぞれの季語を再生する営みだということである。その作業過程において、「花鳥諷詠」や「人間探求」や「社会性」は論議されたのだと、僕は思っている。それぞれが俳句の可能性を広げる議論ではあったけれど、有季俳句である以上は、結局は季語という俳句のキーワードへと問題は収斂されるのである。だからこそ僕たちは季語を徹底的に取材しなくてはならない。そのことを怠って、有季俳句の言葉が立つことはないと、覚悟すべきなのだ。
ただし、ここまでは有季俳句についての覚悟であって、けっして俳句そのものを語っているのではない。もしも俳人が季語以外に、季語と同等かそれ以上の重みを持つキーワードとなりうる言葉を得たとすると、俳句は季語を必ずしも必要とはしないこととなる。そして僕たちは、芭蕉が「無季の句ありたきものなり」と発言したことや、子規が「雑の句」を容認していることを考えなくてはならない。有季俳句ももちろん俳句には違いないけれど、それ以外も、即ち無季俳句も俳句である。子規は雑の句にはいい句はないと言っている。富士山の句ぐらいだといっている。茨の道であることは覚悟しなくてはならないけれど、
いつせいに柱の燃ゆる都かな 三橋 敏雄
を始めとして、多くの先蹤による無季俳句の実例をしっているのである。季語と向き合う時以上の注意深い取材力が必要だろうけれど、無季俳句もまた、俳人の道なのである。
島田牙城
無季俳句のことA布団または兜虫、時には写生、
櫂未知子さんは現在の俳句を牽引している一人である。僕は彼女の作品が好きで、その第一句集『貴族』の制作にも直接関わっている。彼女の良さの第一点は取材力である。例えば、
いきいきと死んでゐるなり水中花 櫂 未知子
という作品は、深い取材なくしては生まれ得ない。文学にとって取材するとはどういうことかを一言で言えば、対象を立たせる言葉を、対象を通して新たに発見する作業ということだ。
奥坂まやさんがこの作品を剽窃して、
いきいきと死んでをるなり兜虫 (抹消済み)
という句を発表したことは、先月号で触れた。ただ、そこで書きなずんだ大切なことがある。櫂の句が徹底取材によって「水中花」を立たせ得た作品であるのに対し、奥坂の句は「兜虫」という素材があるにもかかわらず、季節感に乏しい平板な作品で終わっているのだ。剽窃問題からはずれるので前回は書かなかったが、この点は強調してもいいだろう。二つの面白い証言がある。
一つは奥坂自身の言葉で、「もともと生命のない水中花に死んでいると付けたのではなく、私の句は写生句なのだ」という発言だ。奥坂が写生をどのように定義しているのかは知らないけれど、兜虫の死体を見て見て見抜いた果てに「いきいきと死んで」という表現に辿り着いたとしたら、「そんな情緒的な表現で終わるようなものは写生とは言いませんよ」とお教えせねばならなくなる。この句は写生句ではない。それが証拠に奥坂さんご自身、「艶々と」が気に入らないので考えているうちに「いきいきと」を思いついた旨を証言しておられた。写生を諦めた後に頭で気付いた表現だということだ。少なくとも高浜虚子から波多野爽波へ伝えられ、私が肉体で理解している「生まに写す」写生とは程遠い。
もう一つの証言は、歌人の荻原裕幸さんのものだ。荻原さんは、この兜虫は標本箱の中かなにかに入っている兜虫と解してもいいのだろうかと、僕に質問を投げてこられたのである。荻原さんは俳句の読者ではあるが本来歌人なので季語にすれていない。詩歌を読む眼力を備えながら一般読者として俳句を読む人の目に、この兜虫は「夏の兜虫」とは映らなかったといっていいだろう。もちろん荻原さんは「兜虫」が夏の季語であることをご存知であるけれど、この兜虫から夏の属性としての強い陽光やクヌギ林を駆け回るランニングシャツの子供たちを連想することはなかったのだ。標本の兜虫なら季節に関わりなく、年中あるのだった。
この二つの証言の後に現れてくるものは何だろう。それは、奥坂作品の「兜虫」が季語として機能していないということである。
僕は荻原さんの質問に対して、一般的な俳句の読みをお応えした。即ち、「兜虫」と作品のなかに出てくれば、俳人は当然のようにクヌギ林や夏の陽光を思うし、奥坂さんも自然の兜虫を「写生」したのだろう、と。標本の兜虫を表現するためには「標本箱の兜虫」とでも書くしかないだろう、と。と同時に、奥坂さんの句は「写生句」ではないことも付け加えておいた。
奥坂作品の兜虫は写生(生に写す)された作品ではなく、言葉が空で摑んだ借り物だから、一般読者には標本とも写る場合があり、夏の生物としての兜虫とは感受されないのである。
ということは、奥坂作品の「兜虫」は季語ではない、季語として機能していない、ということになる。
翻って、櫂の「水中花」はなぜこんなにも生命感漲っているのだろうか。感性を一杯に開き、自らを水中花に融けこませて取材したからだ。水中花が、夏の一瞬の命の強さを櫂に語ったのだろう。
ところで、櫂さんには次の作品もあった。
佐渡島ほどに布団を離しけり 櫂 未知子
僕の大好きな戀句である。僕はこの作品を無季の秀句と思っている。この句の「布団」からは、どうしても冬を感受できないのだ。この布団は、敷布団を中心とし枕やシーツまでを含めた寝具全体であって、その敷布団の上に冬の重い掛け布団が延べてあろうが、夏のタオルケット一枚がひらりと掛かっていようがどちらでもいい。夏を想定して一句の物語を仕立てることも可能なのである。例えば楸邨の「ふくろふに眞紅の手毬つかれをり」を夏にふっと思い出すということは稀だろうし、万が一思い出したとすると、その時、その人の心には、身動き取れぬ冬の風が過っているのである。だからこの作品の「梟」は紛れもなく冬だ。しかし、櫂の作品は夏にも自然と思い出せる。そしてそのとき、読者の心に冬の風が吹いているとは思えない。やるせない「戀の風」が吹いているのではなかろうか。戀の歌の伝統は、春夏秋冬を厳密化する以前からの日本語詩の重い伝統なのだから、この「布団」に冬を無理強いするよりも、大らかに「無季の戀句なり」と捉えたほうが、日本語の歌の流れに適うのである。
ただし、この事を書く時には必ず付け足しがいる。櫂さん自身はこの句を紛れもなく「冬」の句として作られたということを。
さて、今月の授業で大切なことを書く。先の奥坂作品は季語と認定されている単語を利用した無季の駄句であり、同じく櫂の布団の句は、季語と認定されている単語を使用している無季の秀句だということを僕は言ってきたのである。
どういうことか。諸君は歳時記というものを持っているだろう。そこに季語が犇いていると思っていたら、それは間違えである。歳時記に載っている単語は「季語」ではなく、「季語に成り得る単語」の集成にすぎない。その単語が作品の中で使われ、季節感溢れる言葉として機能した時に始めて「季語に成り得る単語」は「季語」に生まれ変わる。歳時記に載っている単語であっても、使われたのちに季節感を醸さないな場合は、それは季語ではないのである。
《初めに季語ありき》。この蔓延してしまっている俳句に対する誤解を、僕は何とか解きほぐしたい。解きほぐし得た時、季語は今以上に輝くはずだ。ことばそのものの力を回復するはずだ。
見たことも来たこともなき宇都宮 筑紫磐井
僕が今目指している高い峰だ。この二三年、僕を驚かせてくれた作品として、この一行を越えるものに出合っていない。僕は季節論で磐井さんと徹底的に対立するけれど、この句を超える作品の一行を書かないことには話にならないと自覚している。俳句は終に、ここまで馬鹿馬鹿しくもリアルになったのである。
無季俳句のことB『昭和俳句選集』讚
島 田 牙 城
昭和四十九年(一九七四)の春から俳句を作り始めた僕は、さまざまな俳句の本と出会った。筑摩書房の「俳句の本」シリーズ、有斐閣の新書シリーズや『虚子物語』、立風書房の「現代俳句選集」シリーズなどが、当時つぎつぎと企画されていった。「現代俳句選集」は作品集だったから当然のこととして、他のさまざまな企画も、俳句の本質に触れようとする本格的なものだったから、入門直後の僕にとって有難かったし、刺激的だった。昭和五十年前後がどういう時期だったかというと、戦後俳壇に登場してきた新人たちが五十歳代半ばにさしかかるころ、金子兜太・飯田龍太・森澄雄・三橋敏雄といった戦後俳句のスターたちの油が乗り切った時期である。石田波郷はすでに亡くなっていたけれど、草田男・楸邨はもちろん健在、一世代上の四Sすなわち、誓子・畝・素十・秋桜子もみな隠然とその影響力を保持していた。
日本経済が好況だったことも手伝って、一種の戦後俳句の総括という動きが、昭和五十年前後にあったのではないだろうか。
また叱られそうなことを書くと、俳壇が健全に文学集団であった最後の時期でもあるのだろう。
この時期に一冊の本が刊行された。『昭和俳句選集』というアンソロジーである。編者は「俳句研究」編集長でもある高柳重信だった。僕は大いに期待をして、大阪梅田の紀伊国屋書店へ行った。そして落胆した。当時どこを見て落胆したのかまでは覚えていないけれど、「こんなに恣意的に集められた作品集に{昭和俳句選}という名前を被せてはいけない」と思った。「高柳重信とはなんと横暴な男であることか」と思った。この意識は今でもはっきりと覚えている。飯田龍太の句も、森澄雄の句も、師匠である波多野爽波の句も、そして、誓子・畝・素十・秋桜子・草田男・楸邨・波郷と、昭和俳句を彩る作家の作品が一句も載っていないのだ。そんな本がなぜ昭和俳句の選集と言えるのかと、憤ったのである。
もちろん僕はこの本を買いやしなかった。そしてそれ以降今日まで、この本を手にすることもなかった。
なのに今、この本が手元にある。そして僕が「無季俳句のこと」という題で文章を連載している。なんという現実であろうか。
特に戦後の俳壇は、俳句人口の老化と相俟って次第に保守的な様相を深め、閉鎖的な結社主義を蔓延させながら、ふたたび俳句形式に対する固定観念の中に埋没してゆくのであった。そして、そのような甚だしい停滞は、或る一つの俳句的なエコールの系譜を、ほとんど意図的に無視することで、いつそう顕著になったとも言い得るであろう。
この選集は、
大阿蘇の荒れてをれども畠打 高屋窓秋
という昭和五年の作品に始まる。なんの変哲もない作品だけれど、高屋窓秋を巻頭に置きたかった高柳の美への讚を思う。この選集には桂信子も金子兜太もいない。ほんとにまったくもう、と言いたくなるほどに恣意的な一書だけれども、恣意的だからこそ意味がある。アンソロジーに客観は有り得ない。
落丁一騎対岸の草の葉 加藤郁乎
我が儘な編者は、我が儘な作品を採る。
靴を磨かせ何処にふるさと在ることか 上田都史
加藤の作品と同じページ、昭和三十四年の項にありながらの、この落差は何だろう。良し悪しの落差ではない。作品の志向する方向性の落差である。そして同じページに、
散るという言葉の奥へさくら散る 折笠美秋
が置かれているのだから、ぐっと来る。この句の「さくら」は、無論季語でもなんでもない。すくなくとも、こういう作品を抹殺し無視し続けていたい保守勢力が守りたがっている「季語」という死語ではない。
そう。言葉は「季語」に認定された時点で一旦「死語」になるのだ。歳時記は言葉の墓場だとまで、最近の僕は思っている。
季語を五七五という定型の中に収めれば、俳句を量産することは可能だ。最近のインターネット句会などを見ていると、産めよ増やせよとばかりに有季定型俳句もどきが量産されている。若い諸君もそういう場面に今後多く出会うだろうけれど、それらの作品にどれほどの「我が儘」があるかを見てほしい。どれもこれも「季語」という偉大なる先達にひれ伏しているばかりだろう。その偉大な先達はすでに亡いと知るべきではなかろうか。
現代俳句が生き延びる方法、それは、歳時記の廃止である。原理主義者のようだけれど、季語もそうでない言葉もいったん平準化するのである。「どの言葉を使ってもよい。あなたの抵抗精神を五七五に表現するのだ」という、俳の原点に立ち返って作品を生むこと。その心意気があれば、「季語」と呼ばれる言葉も含めたすべての言葉がまた自然と息を吹き返して屹立するはずである。
最後に、『昭和俳句選集』より、リアルな一句を。
木琴に日が射しをりて敲くなり 林田紀音夫