新宿戦跡ガイドブック
陸軍諸学校の沿革

【写真は港区から移転した防衛庁(現防衛省)。後ろに220メートルの通信塔が見える】
新宿区は、もと陸軍関係の諸学校が多く設置されていた。これは新宿区の教育上の特色の一つと言える。東京には13の陸軍省教育総監部管轄の学校があったが、その内の8校が区内に置かれていた。(他区にあった学校は陸軍大学校、獣医学校、憲兵練習所、騎兵実施学校等である)
市谷を中心に陸軍士官学校、陸軍経理学校(河田町)、陸軍砲工学校(若松町、のちの科学学校)があり、戸山町には陸軍戸山学校、陸軍中央幼年学校、東京地方幼年学校、陸軍軍医学校及び陸軍軍楽学校があった。
このように、多くの軍関係諸学校が新宿区内に置かれた理由は、広い大名屋敷の土地を利用するのに好都合だったこと、戸山ヶ原が近くにあり、軍の演習等に便利なこと、防衛上重要であること、また交通至便の地であることだと考えられる。陸軍士官学校が尾州徳川候上屋敷跡に、陸軍戸山学校が同じく徳川家の戸山山荘跡に設置されたのがその好例である。
ゆかりの尾 陸軍関係の諸機関が新宿区内に多かった理由については、尾張家屋敷地 頭に記述したとおりである。しかし、つぎの事実も理由の一つに挙げることができると考える。
新宿区内には徳川家以外の武家屋敷が多くあった。矢来町の小浜藩主酒井忠勝の屋敷、信濃町の永井家などみな広大な屋敷地である。しかし、まず尾張徳川家の屋敷地を軍関係にしたのは、次のような理由からと思う。
明治元年、官軍の江戸総攻撃は、東海・東山・北陸の三方面から行われた。東山道軍の参謀板垣退助は、まず土佐、因州【注・山陰道の一国。今の鳥取県東部】の兵を率いて甲州街道を江戸に向かって出発し、勝沼で新撰組の近藤勇らと一戦を交え、八王子を経て3月14日に内藤新宿に到着、本陣は東山道鎮撫総督の御宿となった。
やがて全軍が続々江戸に到着、市谷本村町の尾張徳川藩邸に布陣した。そして4月11日江戸開城となったのである。つまり、徳川本家の親藩である尾張家をまっ先に官軍が占拠し、精神的な圧力を徳川方にかけた。
官軍は忍(しのばず)ノ池をへだてた本郷向ヶ丘の加賀藩邸に佐賀藩のアームストロング砲で砲陣を敷き、上野の山に立てこもった彰義隊に砲弾を撃ち込み勝利した。市ヶ谷台から外堀をへだてた江戸城に、同じように大砲の筒先を向けながら三田薩摩藩屋敷で西郷隆盛が勝海舟と交渉したとも考えられる。新宿地図集に「東京鎮臺砲兵営」「陸軍野戦砲兵営」とあるが、こうした由緒から見ても考えられる。また、官軍の母体となった陸軍の幹部は、同じ理由からその教育諸機関を尾張家屋敷地に置いたと思われる。
陸軍士官学校
陸軍士官学校は市谷本村町(現在の防衛庁)にあった。ここは明治以前、尾州徳川候の上屋敷で政権奉還に伴い徳川家から明治新政府に献納されたものである。敷地面積は83.832坪である。明治8年この地に陸軍士官学校の校舎を新築し、以来、昭和12年8月神奈川県高座郡座間町に移転するまで、軍人幹部はここから巣立っていった。
本校は、明治元年8月、京都に兵学所を設け、武学に志あるものを通学させたのがその前身である。同2年7月兵学所を廃して陸軍兵学寮を大阪に置き、12月に生徒を入学させて青年学舎と称し、歩兵・騎兵・砲兵の三兵科士官を教育する施設とした。同4年10月に兵学寮を東京の神田錦町3丁目イ1番に移し、11月に教導隊もこゝに移して教導団と称した。同6年仮りに士官学校を兵学寮中に設け、教導団生徒を選抜して生徒とした。陸軍兵学寮跡地に学習院が明治10年新校舎で開業式を挙行した。学習院女子大学の正門は神田錦町に建っていたものを移設した。
明治7年10月はじめて陸軍士官学校条例を制定し、陸軍少将曽我祐準を校長とし、事務所を兵学寮に設けた。そして市ヶ谷台の新校舎が士官学校がはじまりである。陸軍各兵科の士官候補生として初級士官たるに必要な学術を修得させるところである。教科には、戦術学、軍制学、兵器学、築城学、地形学、馬術学、衛生学、外国語学(独、仏、英、清、露)があり、3ヶ年で卒業する。昭和9年3月、陸軍士官学校一号館が建設された。
昭和12年8月本科は神奈川県座間町・相模原町(相武台、現在の米軍座間キャンプ)に移転、昭和16年に予科が埼玉県朝霞町(振武台、現在の陸上自衛隊朝霞駐屯地)へ移転、航空士官学校は埼玉県豊岡町(修武台、現在の航空自衛隊入間基地)にそれぞれ移り、その跡地は、陸軍省、参謀本部などとなった。戦後は国際軍事裁判所(東京裁判)となり、28名のA級戦争犯罪者に対する軍事裁判が行われ7名に死刑判決が下された。27年4月GHQ(米極東軍司令部)が日比谷にあった第一生命ビルから移転し、この高台一帯をパーシングハイツと呼んだ。転じて米軍将校宿舎、続いてアメリカン・スクールなどとなったが、昭和34年11月に日本に返還され、その後大部分は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地となり、現在は防衛庁となった。残りの北部には日本育英会、大蔵省印刷局記念館などが、西部には警視庁第五機動隊、交通機動隊などとなった。
陸軍戸山学校・陸軍軍楽学校
陸軍戸山学校は、第八大区四小区戸塚村(現戸山二丁目)に明治6年6月22日、陸軍兵学寮戸山出張所を置いたのが最初である。現在戸山ハイツとなっているあたりが、江戸時代の尾張徳川家下屋敷であり有名な戸山山荘といわれた跡で、廃藩置県に伴い、徳川慶勝下邸跡を兵部省が管轄し、陸軍が庭園として管理していた。ここが戸山学校誕生の地である。陸軍全体の教育を統一し、特に歩兵科の根本的進歩を図る目的で、各鎮台(陸軍の兵営)から上・下士官を選抜召集し教育した。また軍事に関した学術、銃器に関した研究をするところにした。
明治7年2月、戸山学校と改称し、8年5月陸軍省直轄となり、20年5月監軍部に属し、同31年1月から教育総監部に属した。
学生を戦術科・射撃科・体操剣術科の三種とし、各隊から毎年定期的に士官・下士官を召集し、また臨時に佐官を召集してそれぞれの科に応じた学術を研究させ、訓練研究のため教導大隊を置き、譜調学生訓練のため軍楽生徒をおいた。
修業期間は、戦術科はだいたい10ヶ月、射撃科は4ヶ月、体操剣術科は7ヶ月である。構内には陸軍軍楽学校が併置されていた。各軍楽隊の楽生補充のため、生徒を養成したのである。校長は陸軍戸山学校長が兼務し、生徒は、軍楽部出身の志願者から採用した。修業期限は15ヶ月で、その期間中は帰省休暇は許されなかった。
現在、箱根山ふもとの東側にあるすりばち状のくぼ地は軍楽学校の野外音楽堂跡である。底部にはステージと壁面があった。戦前はそこで演奏練習をしたり、外国武官の訪問があると箱根山に案内して説明しながら、そこで音楽を奏したところである。築山である箱根山頂上の海抜は44.6bで旧市内で一番高い場所である。因みに牛込台地の余丁町は36b、市谷本村町は33b、港区愛宕山は26bである。
昭和23年、本校跡地に、東京都が自然動物園と競技場を作る計画で工事を始めようとした。当時日本は米軍の占領下にあり、第8軍東京軍政部司令官は、「東京の大勢の市民は家がなくて困っているのだから至急住宅を建てよ」と、都に指令し建築材料を提供した。そこで東京都は急遽1052戸の水洗トイレ付き木造住宅を作り、戸山ハイツと称し、戦災者や引揚者などを入居させた。ハイツは昭和45年から次第に鉄筋高層アパートに改築され、49年にはほぼ完成した。
陸軍砲工学校(のちの陸軍科学学校) 明治22年5月、若松町の旧武家屋敷跡に開校した。教育総監部に属し、砲工兵科の少・中尉を学生とし、砲工兵科の勤務に必要な学術を教授した。明治22年5月に条例ができて開校したものであるが、23年9月条例の改正があり普通科、高等科に分かれた。修業年限は普通科、高等科ともに1年であった。さらに修業者の中から各科ごとに3分の1の生徒は1年間在学し学術研究をした。なお、前述の陸軍軍楽学校と異なって3週間の夏期休暇があり、少尉、中尉だけの学生で優遇されていた。昭和16年8月陸軍科学学校に改め、教育内容も、兵器の近代的科学化に備えたが、終戦で廃校となった。
陸軍中央幼年学校
前述の市谷本村町の陸軍士官学校構内にあった。予科と本科に分かれ、本科は予科卒業者および陸軍地方幼年学校卒業者を入学させ、士官候補生に必要な普通学科及び軍の専門教育をし、将校に必要な軍事教育をしたところである。
本校は、江戸幕府が創立した横浜語学学校に始まったが、明治3年大阪に移り、5年に東京桜田門外の旧彦根藩邸に移った。この時陸軍幼年学校と称したものである。同10年には廃止されて生徒は士官学校の管轄下となって同構内に移ったが、20年に条例ができて、再設され、29年に陸軍中央幼年学校条例が制定されてこの校名になった。このとき従来の陸軍幼年学校を廃し、地方幼年学校6校と中央幼年学校1校が設けられた。この地方幼年学校6校の1校として、東京陸軍地方幼年学校が新設されている。
明治36年6月、東京陸軍地方幼年学校を陸軍中央幼年学校に併合し、中央幼年学校を本科、地方幼年学校を予科と称したのである。そして大正9年7月まで市谷本村町にあったが、8月戸山町に移転した。中学1・2年から入学できる。修業年限は予科3年、本科2年で、生徒は自費生、特持生、半特持生の3種に分けられ、学費の納入に差額を設けた。昭和19年4月八王子に移転した。
成城学校
現在、新宿区原町三丁目に男子校の私立成城学園(幼稚園・中学校・高等学校)がある。土地の登記簿謄本を見ると、明治24年11月4日に皇宮附属地である宮内省の土地が陸軍省用地に替えられ、直ちに成城学校に下賜されている。これは当時、市谷薬王寺町35番地に住んでいた陸軍大将児玉源太郎が陸軍幼年学校、士官学校に入学できる生徒の学校をつくるために政府に働きかけ無償で土地を手に入れた事を示す資料である。
因みに百人町にある海城学園は海軍兵学校に入学させる生徒のための学校だと言われている。
陸軍兵務局分室 陸軍の防諜・謀略戦を一元的に担当していた部署は参謀本部第二部(情報)であったが、陸軍省においても兵務局が中心となり、防諜工作を担当する防衛課を昭和12年に新設し、実施部隊の本部を軍医学校の敷地内に置き、「兵務局分室」の看板を掲げた。一方、陸軍大臣直轄の組織として軍事資料部の指揮・監督下に置かれたもう一つの兵務局分室(ヤマ機関)があった。元憲兵少尉の日記に次のような記録がある「牛込区戸山ヶ原の山峡内陸軍病院裏山、陸軍戸山学校の西隣り。長、佐官1(大坪中佐)、尉官下士官軍属嘱託、通訳官等、合計120名(位)。構造物、半鉄筋木造2階建延数100坪2棟、附属舎、統計、分析室等若干」
陸軍軍吏学舎
(のちの陸軍経理学校)

【写真下は若松町に今も残る陸軍経理学校の煉瓦塀。
 写真上は境界石。陸軍省所轄と読める】

明治19年に市谷河田町の尾張徳川家中屋敷跡に開校した。22年まで軍吏学舎といい、陸軍経理官の養成所として麹町区平河町に開設し、一等書記から採用して10ヶ月間養成したものである。初代校長は川口武定である。
明治22・23年に条例改正があって経理学校とした。学生を監督学生、軍吏学生の2種とし、前者は学生を各兵科中尉及び1・2等軍吏から採用した。修業年限は2年である。後者は各兵科曹長及び一等書記から採用し10ヶ月で卒業した。明治27年の日清戦そのため、一時閉鎖したが戦後再び開校して昭和20年まで続いた。その跡地は現在の東京女子医大病院、韓国学園、税務大学校などとなっていたが、税務大学校は埼玉県和光市に移転した。
陸軍軍医学校
【写真は陸軍軍医学校全景・軍医學校五十年史より】

昭和4年3月、戸山町に校舎を新築し麹町区富士見町から移転してきた。戸山山荘跡にあった東京第一衛戍(じゅ)病院(その後陸軍東京第一病院となり、現在は国立国際医療センター)の敷地内に開設された。
 こゝは軍医学生の教育練習や、衛生部に関する教科書の編集をしたところである。また、兵衣・兵食・兵営・兵器等の軍陣衛生に関する試験もしていた。学生は各部隊付の衛生部士官または二等軍医を選抜して医学の訓練をした。志願者は、開業医の免状または薬剤師の免状を所有している衛生現役の者から採用した。練習期間は四ヶ月、教成期間は一年間で卒業試験に合格した者だけが卒業証書を付与された。そして不合格者は退校させられ、また学生としての規定は特に厳しいものがあった。戸山町に移転する以前は、明治19年5月当時の陸軍省の構内に陸軍軍医学舎として設置され、明治21年1月麹町区富士見町に新校舎を作って陸軍軍医学校となった。
 文学者である森鴎外(森林太郎)は2代目、5代目の校長であった。
森陸軍軍醫總監「陸軍軍醫學校五十年史」より 氏ハ萬延元年東京市本郷ニ生レ幼ニシテ麒麟児ノ譽高ク、年齒僅ニ二十歳ニシテ東京大學醫學部本科ノ業ヲ卒ヘ、明治十四年陸軍軍醫副ニ任ジ東京陸軍病院庶務課僚ヲ仰付ケラレシガ、軍陣衛生學講述ノ傍ラ普魯西國陸軍制度ノ研究ヲ命ジラレ僅カ四箇月ヲ出デズシテ醫政全書稿十二巻ヲ草ス。其ノ英俊ニシテ敏腕ナル?ニ此ノ一事ヲ以テ窺フニ足ル。明治十五年軍醫本部課僚ニ任ジ醫事行政ヲ管掌シ、東部檢?監軍醫部長屬員ヲ命ゼラレテ醫事行政ヲ教育ニ關スル卓越セル進言ヲ試ミ、同十七年獨逸國留學仰付ケラレ滯外四年有餘、、陸軍諸制度ノ調査研究ニ努メ、我ガ衛生部ヲ裨益セシ所幾許ナルヤヲ知ラズ。歸朝後陸軍軍醫學舎教官ニ任ジ陸軍大學校教官、陸軍衛生會議事務官ヲ兼ネ、後陸軍軍醫學校教官ニ轉ジ、同二十四年醫學博士ノ學位ヲ授ケラレ同二十六年ニハ陸軍一等軍醫正ニ進ミ陸軍軍醫學校長ノ重職ヲ拝ス。日清ノ役起ルニ及ビ中路兵站軍醫部長トシ或ハ第二軍兵站軍醫部長トシテ各地ヲ轉戦シ、後其ノ功ニ依リ功四級金鵄勲章ヲ賜ハル。二十八年陸軍軍醫監ニ任ジテ臺灣總督府陸軍局軍醫部長ノ職ヲ奉ジ、軈テ再ビ軍醫學校ニ復シ近衛師團軍醫部長ノ要職ヲ兼ネ、次デ第十二師團、第一師團各部長ニ歴任シ、日露ノ役ニハ第二軍軍醫部長トシテ各戦鬪ニ從ヒ、凱旋ノ後、四十年ニハ陸軍軍醫總監ニ進ミ陸軍省醫務局長ノ職ヲ襲ヒ、大正三、四年戦役ニ服シ旭日大綬章ヲ賜ハル。(略)
■陸軍省
【写真は市谷八幡宮境内に残る官民境界を示す陸軍の境界石】
旧日本陸軍の編成、兵器、給与、規律、検閲など、軍隊の維持つまり軍政をつかさどる組織で、陸軍大臣は内閣の一員となり、明治以降の我が国の政治に大きな発言権を持っていた。敗戦後、20年11月30日廃止され、第一復員省に引継がれた。
陸軍参謀本部
【写真は大本営陸軍部の表門【新宿区平和都市宣言五周年記念誌】


国防計画、作戦計画、平時・戦時における兵力の使用など、主として軍隊の運用、つまり軍令をつかさどる組織で、天皇に直属し、陸軍省や内閣から独立していた。    
昭和12年に日中戦争が始まり、天皇が全軍を指揮する最高本部として大本営が設けられてから、参謀本部は大本営陸軍参謀部と事実上一つのものになった。20年10月15日に廃止された。
陸軍教育総監部 陸軍軍人や陸軍諸学校生徒の教育・訓練を統括する官庁で、教育総監は天皇に直属し陸軍大臣・参謀総長と並んで陸軍の三主要ポストとされた。
陸軍近衛騎兵連隊
宮城(皇居)の護衛と儀仗のため設置された御親兵(薩長土三藩よりの召集兵)に由来する近衛師団(師団本部は北の丸公園内にあった。そのレンガ建ての建物は国立近代美術館となっている)に属する騎兵連隊で、近衛兵は全国から選抜された。跡地は学習院女子大学、都立戸山高校、新宿区立戸塚第一中学校となり、レンガ建ての兵舎は学習院女子大学の校舎として現在もつかわれている。(写真)
戸山ヶ原 明治31年、近衛連隊のなどの演習場として、民間の土地を陸軍省が買い上げたものであり、広さは山の手線をはさんで16万5000平方bもあり、武蔵野の面影が残されていた。
陸軍技術本部・陸軍科学研究所・陸軍兵器行政本部
戸山ヶ原の山の手線西側9万9000平方bの敷地に陸軍の各種兵器・技術の研究・開発を行う施設が建設されていた。昭和12年に科学研究所「登戸実験場」が川崎市登戸に設立した。(現在の明治大学生田校舎)昭和14年「登戸出張所」設立。昭和16年陸軍技術本部「第九研究所」設立。昭和17年陸軍兵器行政本部「第九技術研究所」設立。登戸研究所、戸山町の防疫研究室、関東軍731部隊、南京第1644部隊(正式には支那派遣軍中支那防疫給水部)、陸軍中野学校などがハード・ソフトのネットワークとして細菌戦・化学戦・謀略戦を研究・実戦した。「陸軍技術本部調査班刊行物総目録・昭和4・5年版」を見ると「化學戰の将來」「細菌戰」「化學兵器の戰術的價値」「化學兵器の將來」などの研究題目が見える。
跡地には都立衛生研究所、国立博物館分室、社会保険中央病院、公営住宅、区立西戸山小・中学校、呉羽化学などの建物がある。呉羽化学がここにあることは陸軍と関係があったからだと社員の一人が語っているが、今後の調査が待たれる。元新宿区議中口伊佐美氏の話によると天皇行幸記念の「兵器天覧之碑」があったが、今は行方不明だそうである。
陸軍戸山ヶ原射撃場
明治7年、戸山ヶ原の山の手線東側から明治通りまでが陸軍用地となり、射撃の練習に用いられた。隣接の諏訪神社境内に「明治天皇射的砲術天覧所址」碑が建立されてある。
昭和2年から3年にかけて、長さ300メートルの鉄筋コンクリートのトンネル式の射撃場七棟が造られた。これは巨大な土管のような形で、その異様な姿は人々に気味悪がられた。戦後は占領軍に接収使用された。跡地は早稲田大学理工学部、新宿スポーツセンター、海城高校、保善高校、都立戸山公園などとなっている。
青山練兵場・陸軍輜重(しちょう)兵大隊・大番町兵器庫
【慶応病院駐車場の隅に残る陸軍の境界石】 
江戸時代には幕府の御焔烟蔵(ごしょうえんぐら)や御鉄砲場があった場所を明治になってから陸軍火薬庫となった。明治20年から陸軍青山練兵場とした。信濃町には明治6年4月、陸軍輜重兵(物資輸送部隊)第一小隊が設けられ、同9年4月には第一中隊となり、同18年12月には第一大隊となり、その兵舎があった。大番町には陸軍兵器支隊と兵器庫が設けられた。後述の甲武鉄道が線路の敷設のため地盤を掘り下げたところへ青山軍用停車場と青山練兵場を結ぶ跨線橋を3本設置した。大正時代になり青山練兵場が代々木練兵場に移り、輜重大隊が目黒に移った。その後を地元では商店街にしたいという要望もあったが慶応義塾大学が買収し、大番町(現大京町)と信濃町に医学部と附属病院を新設した。3本の跨線橋のうち2本は壊され橋桁だけが残っている。残る1本は大番町跨線橋として水道本管が通り、また歩行者専用橋として現在も利用されている。
青山軍用停車場

甲武鉄道は明治22年5月22日に、新宿―八王子線を神田区三崎町まで複線延長させる市街線の仮免許状下付を出願した。これは、市内の軍隊輸送を迅速円滑化したいという陸軍の要望がきっかけになっていた。陸軍はすでに、新宿と小石川の陸軍砲兵工廠(水戸徳川家上屋敷跡である。現在は東京ドーム、文京区シビックセンター等となっている)との間に鉄道を敷設することを日本鉄道会社に諭示したという経緯があった。
同年7月13日に仮免許を得ると、すぐに測量にかかった。当初は現在の靖国通りルートを計画したが、陸軍から青山御所地下にトンネルを掘ることを許すからと千駄ヶ谷へのルート変更を強要された。曲折のすえ、現在の中央線の位置に落ちつき、明治26年3月1日、市街線新宿―四谷―飯田町間建設の免許状が下付され、7月から着工の運びとなった。
当時、日本と清国の国際情勢は険悪な状態にあった。そのため軍部は、青山練兵場に軍用停車場を設け、甲武線と連絡して、西は広島、北は青森までの軍隊の直通輸送計画をたてていた。
日本鉄道会社は、軍部の要請を受け、同会社線品川―目黒間の大崎から分岐して東海道線品川―大森間の大井に接続する軍事専用短絡線(品川西南線)を起工し、8月下旬に完成させた。新宿駅発の「踊り子号」は大崎駅から分岐したその線路を利用しているのである。
一方、甲武鉄道会社は軍部の要請で、軍用停車場と軍用線の建設工事を委託され、工期を1ヶ月半と要求されたが、全力をあげてこれに当たった。その結果、市街線開通直前の9月17日に工事を完成させ、6日後から軍隊輸送を行った。この間、8月1日には日清戦争が勃発していたのである。
明治天皇が死去したとき、葬儀が青山練兵場に設けられた葬場殿で行われた。その後神宮外苑と明治記念館の工事の際、工事材料の搬入のため、鉄道院に対し千駄ヶ谷駅より外苑に分岐する鉄道引込線の敷設を交渉した。その結果、旧軍用鉄道敷地を利用し、大正8年10月に完了した。「造営局千駄ヶ谷側線」と呼ばれたものは、これである。軌道延長は1045メートルであった。
山縣有朋著「陸軍省沿革史」より
兵學校 明治元年八月二日 兵學校ヲ開キ、堂上地下諸官人ノ子弟竝ニ在京ノ下太夫ヲシテ入學セシム。後日ノ士官學校ノ基礎實に此ニ成レリ。
同二年正月 兵學校ヲ改メ兵學所ト稱ス。
同八月五日 兵學所ヲ元所司代邸兵部省中ニ移ス。
同九月四日 京都兵學所ヲ大阪兵學寮に移ス。兵部省大輔大村益次郎曰ク、『皇国ノ兵式ヲ一定セント欲セハ其師範タルヘキ人才ヲ養成セサルヘカラス。?チ學校ヲ開キ兵術學業ヲ根本ヨリ學習セシメ、語學所ヲ益〃盛大ナラスムヘシ。陸軍ハ一般ニ佛式ニヨリ大阪ニ於テ養成シ、人才輩出ヲ待チテ皇国ノ兵式ヲ立ツヘシ。』
兵學寮青年舎 同年十二月二十八日 大阪兵學寮ニ新生徒三三名ヲ入學セシム。之ヲ青年舎生徒トナス。?チ歩騎砲ノ士官ヲ養成スルモノニシテ、兵學權允大島貞薫ヲシテ専ラ之ヲ掌ラシム。
陸軍學舎規則 同三年四月三日 兵學寮陸軍学舎規則ヲ定メ、大藩四人、中藩三人、小藩五萬石以上二人、五萬石未満一人ノ割合ヲ以テ入學セシム。當時兵學寮ニ青年學舎、幼年學舎ノ二舎アリ。一ハ速成ヲ主トシ、一ハ他日ノ大成ヲ期セシメシモノナリ。 
同年四月二十四日 兵學寮中ニ於テ教導団ヲ編成シ、砲兵三十名、騎兵二十名、建築兵五名ヲ置ク。
 同年五月十二日 横濱語學所ヲ大阪兵學寮ニ移ス。語學所ハ明治二年五月ノ創設(略)
各藩ニ命シ陸軍生徒ヲ出サシム十月二十日 各藩ニ命シ、石高ニ應シ、大藩九人、中藩六人、小藩三人ノ割合ヲ以テ陸軍生徒ヲ大阪兵學寮ニ出サシム。 
軍醫寮 同四年七月五日 兵部省中ニ軍醫寮ヲ設ケ、諸官ヲ置ク。
教導團 同年十二月八日 教導隊ヲ東京ニ移シ兵學寮ニ属シ、更ニ教導團ト稱シ、(略) 
同年十二月十日 兵學寮ヲ東京ニ移ス。
兵學寮絛例 同五年九月二八日 兵學寮絛例ヲ定ム。寮ノ目的ハ武學術ノ精究ヲ旨トシ、其蘊奥ヲ極メ、以テ軍隊ノ全力ヲ盡シ、其技術ヲ発達スルヲ以テ主トス。之カ爲ニ左ノ校舎ヲ設ケシム。士官學校ハ歩、騎、砲、工ノ士官ヲ教育培養シ、幼年學校ハ少年生徒ニ洋語及ヒ普通學科ヲ教授シ、教導團ハ專ラ下官ヲ教導シ、且ツ其學課ヲ試驗ス。第一學舎ハ寮中一般武器ノ出納ヲ兼掌シ、第二學舎ハ寮中一般武器ノ諸務ヲ兼掌シ、第三學舎ハ射的體操ノ諸學術ヲ兼掌シ、第四學舎ハ寮中一般書籍ノ出納ヲ兼掌ス。凡テ諸學校ハ上下士官生徒ノ教育ヲ主トシ、諸學舎ハ用兵補助學科ノ精究ヲ盡シ、若干ノ生徒ヲシテ專ラ其蘊奥ヲ學ハシムルヲ旨トス。   
戸山出張所 同六年八月二十日 兵學寮ニ戸山出張所ヲ設ケ陸軍大佐長坂昭徳ヲ以テ同事務掛トナス。是レヨリ先八月七日、戸山學生概則ヲ定メ、歩兵各隊ニ附屬スル上下士官中若干員ヲ募集シテ學生トシ、諸科ノ教官ヲ以テ之ヲ教授セシム。是レ全國各軍隊ノ操法勤務一定ニ歸シ、各上下士官ノ學術ヲシテ進歩セシメンカ爲メナリ。而シテ此ニ至リ、學生ハ總テ戸山邸内ニ居住セシメ、兵學寮ノ管轄ニ属ス。戸山學校此ニ成ル。
假士官學校 十月十日 假士官學校ヲ兵學寮ニ置キ、陸軍中佐淺井道博ヲシテ其事務ヲ掌ラシメ、又陸軍少佐中尾捨吉ヲ士官學校掛トナス。
 同7年2月4日 戸山出張所ヲ戸山學校ト改稱シ、兵學寮ノ第三學舎ヲ廢シ、之ニ移ス。
同年11月2日 士官學校ヲ本省ノ直管トス。
大本營ヲ廣島ニ置カセラル 同27年9月15日 天皇大本營ヲ廣島ニ進メ、親ラ軍事ヲ督シタマフ。
「人骨問題」とは? その概要
「人骨問題」とは、1989年7月22日に新宿区戸山(住居表示によって戸山町が戸山となった)の戸山研究庁舎(国立予防衛生研究所等の合同庁舎で現在は国立感染症研究所と他に二つの研究所)建設工事現場で発見された大量の「人骨」をめぐる人道的かつ戦後処理問題である。
発見現場にはかって陸軍軍医学校があり、隣接していた陸軍防疫研究室がかの関東軍731部隊の拠点であったことと、発見された「人骨」の大部分が頭蓋骨や大腿骨などであったことから細菌実験など生体実験の犠牲者のものではないかという、強い疑念と推測がされてきた。発見当初の警察発表では、発見された「人骨」は35体ということだったが、後に新宿区が独自に鑑定を行ったところ、それが100体以上の「人の骨」であることが判明した。
新宿区は「人骨」が発見されると直ちに、厚生省(当時)に対し調査を依頼した。新宿区はその後再三、要望したにも関わらず厚生省は「速やかに、手厚く葬ってほしい」とこれを拒否し続けてきた。その後、国会での厚生大臣の発言もあり、厚生省は関係者からの聞取りと文献調査等を約束し、調査結果を公表する。
一方、新宿区は鑑定の後、墓地と埋葬に関する法律によって「人骨」の焼却・埋葬予算を毎年計上した。焼却を防ごうと住民が焼却予算差し止め請求の裁判を起こしたが、今年になって最高裁は請求却下の不当判決を下した。
そんな流れの中で「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会」(代表神奈川大教授常石敬一)は、1990年に結成され、「人骨」問題究明のため大きな役割を担ってきた。特に731部隊被害者遺族に会えたことと、中国「抗日戦争記念館」から呼びかけられて日本全国で開催された「731部隊展」の中心になりえたことは運動の前進となった。 
しかしその骨は焼骨、埋葬され歴史の闇に葬り去られそうになりましたが昨年6月14日、日本政府は「終戦前の旧軍医学校で、標本あるいは医学教育用に集められた死体の一部と推測される」と発表した。そして戦争との関係を認め、その跡地にある国立感染症研究所内に御影石貼りの保管施設を新たにつくることを決めた。
 時を同じくして昨年6月12日、中国哈尓濱市平房区では世界遺産登録を目指す「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」の除幕式がおこなわれ、私も招待を受け参加した。
 さる3月27日完成した施設において執り行われた納骨式は、厚生労働省・国立感染研究所関係者、人骨を究明する会、国会議員、新宿区議会議員ら約50人が集まり、降りしきる雨で桜の花びらが舞い落ちる中、滞りなく終了した。式は、午前10時から黒御影の保管施設前で14箱のうち、最後の「遺骨」が入った桐箱を職員が納骨した後、参列者が献花した。納骨施設は正面に「静和」と刻まれ、その前に献花台をしつらえ、側面に填め込まれたプレートには以下のように書き込まれまた。『 この地には、昭和20年まで旧軍医学校があり、平成元年7月に、戸山研究庁舎の工事に際し、同校の標本などに由来すると推測される多数の人骨が出土した。 ここに、これらの死没者の方々に心から弔意を表する。 平成14年3月 厚生労働省 』
 これらのことは、過ぐる中国への加害の歴史を風化させることなく、次代に引き継ぐことを希求する内外の日中友好運動を象徴する歴史的な出来事である。
新たな「人骨」問題
都立戸山公園運動広場の拡張整備と「人骨」問題
 森村誠一氏の著作「新版・続悪魔の飽食」のなかに、敗戦直後、防疫研究室裏に何百個もの人体標本が埋められたという証言の記述がある。防疫研究室跡全体は現在都立戸山公園となっているが、その場所は、かって陸軍軍医学校診療部の看護婦であった方からの具体的な証言などから、「総合運動場整備計画地」の一部であることが指摘されている。
 これを受けて「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会」では、新宿区議会宛に「総合運動場の整備に先だって埋蔵遺跡調査をするよう」陳情書を提出した。その直後、土地の買収が棚上げされ、土地の所有者である国立国際医療センター、事業者である東京都、運動場の利用者である新宿区が三すくみの状態となって工事をストップさせてしまった。「会」では国、都、区と交渉の場を持ち、三者協議のうえで総合運動場の早期実現と埋蔵物の調査をするよう訴えている。 
 しかし、土地の所有者である国は調査はしないと断言。事業者の都は「疑惑」と「瑕疵」のある土地は買収しないと予算を不用額にしてしまい、また区は「出来た運動場を利用させてもらうだけで何の権限もない」の逃げの一手である。行政のこれらの動きからみるとかえって、1989年に続く、第二の「人骨」が埋まっていると我々は確信するのである。
森村誠一著「新版・続悪魔の飽食」より
戦前、東京・新宿区若松町の陸軍病院、陸軍防疫研究室には多数の人体標本があった。その中には、乾燥し、ミイラになった人体や、ペストに罹った黒色死体もあった。コレラ、チフスの罹病標本も多かった。
 終戦と同時に、多数の研究者、教育隊少年隊員が動員され標本の処分が急がれた。防疫研究室の裏手にあった空地に、深さ10メートルの大きな穴が掘られ、防疫研究室に陳列されてあった多数のホルマリン漬け人体標本が、ガラス瓶ごと投げ込まれた。関係者の証言によれば「人体標本の処分作業は8月15日以降、1ヶ月かかった」という。
「穴の広さは15メートル4方、深さは10メートル、3階建ての家屋がすっぽり収まりそうな深さだった。穴掘りが完成すると同時に、人体標本を入れたガラス広口瓶、パラフィン処理を施した人体組織標本が何百個も穴の底に投げこまれた・・・・・ミイラの人体標本は投げこまれたところを、東京帝大医学部からきた人びとによって再び拾い上げられ、帝大へ持ち帰られたと記憶している・・・・・標本の中には高橋お伝の臓器もあったが、これは警視庁が持ち去った」とは関係者の話である。(略)新宿区若松町の陸軍防疫研究室や陸軍軍医学校には、ハルピンから持ち帰った「丸太」の標本多数があったのではないか。また標本の中には、731で殺された白人「丸太」の臓器、生首等が含まれていたのではないか。
【注・編者が講演会の会場で、作者の森村誠一氏にこの証言について直接お聞きしたところ、証言者は既に亡くなっているが間違いのない証言であると明確に答えられた。】
戦後の石井四郎と「若松荘」
「石井四郎は終戦直後、東京・新宿区若松町で、焼け残った陸軍関係の建物を利用して、旅館を経営をしていたところ、アメリカ占領軍の呼び出しを受けた。1945年の冬であったと伝えられている。」また、「石井四郎はこの〔ソ連対策のためのGHQ当局による石井尋問〕後、アメリカ軍から、元海軍関係宿舎を改装したアメリカ兵慰安施設を東京・四谷に一軒与えられ、女たちに売春させながら平房から持ち帰った731のデータ整理に当たっていた。」と『悪魔の飽食』に出てくる。
『証言731石井部隊』(郡司陽子著)には「当時、飯田橋を通って神楽坂から新宿角筈に抜ける路面電車があった。その電車の若松町という停留所で降りると、向かいに小島屋がある。その横を真っすぐ入ると、やがて『トイチ』と呼んでいた東京第一陸軍病院につき当たる。病院の左側の塀にそってしばらく歩き、左に折れた先に隊長のお宅があった。私は『三研』の時代から知っていた。鉄筋コンクリートづくりの大きな立派な2階建ての邸宅だった。屋上もある。お宅には、おばあさまと隊長の奥さん、子供たち、それに夫婦のお手伝いがいた。隊長の部屋は、2階にあった。20畳ぐらいの板敷きのホールがあって、その横の和室がそうだった。はじめのうち、隊長は家から一歩も出なかった。なんでもロシアから、『天皇と石井四郎を出せ』という脅迫状みたいなものが来ていたらしい。」と書かれている。はたさて、この3件は別々のものか。
 若松町12番地に木造2階建、相当大きい建物でボロボロ、あちこち穴があき朽ちているが、まだ立派にも立っているものがあった。プライム10「731細菌部隊」に少し写されている。その映像を記憶して、若松町を探した。コンクリート壁に囲まれており、入り口には「建築計画のお知らせ」が張られ、93年1月に立て替え工事を開始する国立国際協力医療センター(仮称)公務員宿舎が建ち、建築主は厚生省関東信越地方医務局長、施工者は未定とある。その写真を何枚か埼玉県の田口さんに見せたところ、若松荘だと言っていた。2階から米兵が顔をのぞかせていたそうである。入口には「若松荘」という看板があったとか。田口さんはGHQに勤めていて、ここにも来たそうである。そうすると、石井四郎が家族と住んでいたところは現在のサマリアマンションなのか。これは袋小路の突き当たりに建っている。[奈須重雄]『月刊731展』第四号「コラム・731の影」より
軍人と花街・遊郭
前項に石井四郎が四谷で売春宿をやっていた話が出てくるが、石井自身が好色遊蕩の軍人のようである。「石井式濾水器」で医療器具メーカーからの贈収賄疑惑で若松町の憲兵隊牛込分隊に取り調べを受けたが、そのきっかけは神楽坂三業地での豪遊からであった。
新宿区には牛込・神楽坂、四谷・荒木町、淀橋・十二社(じゅうにそう)の三業地が、内藤新宿に遊郭があった。区内の軍事施設の軍人と陸軍諸学校の生徒・学生たちの内、将官は待合いで芸者をあげ、下士官以下の兵卒や生徒は遊郭に登廊し、軍隊での抑圧された日々を発散させたようである。この延長線上に中国や東南アジアでの日本軍による現地女性のレイプと従軍慰安婦問題が存在するのである。
【注】芸者街でいう三業とは料理屋、待合、芸者置屋のことで、遊郭では貸座敷、娼妓、引手茶屋をいう。
参考文献 「青木書店発行・東京裁判ハンドブック」「江口圭一著・15年戦争小史」「前川正男著・ある航空技師の記録 中島飛行機物語」「731部隊展資料」「防衛庁発行・市ヶ谷記念館」「新日本出版社発行・日本戦後史資料」「財団法人矯正協会発行・市ヶ谷監獄」「新宿区史」「新宿区教育委員会発行・新宿区教育百年史」「新宿駅発行・新宿駅100年の歩み」「新宿区平和都市宣言五周年記念誌」「朝日新聞社発行・朝日クロニクル週刊20世紀」「軍醫學校五十年史」「山縣有朋著・松下芳男解題・陸軍省沿革史」「陸軍経理學校創立五十週年略史」「陸軍砲工學校略史」「森村誠一著・新版・続悪魔の飽食」「小山弘健著・近代日本軍事史概説」「高橋庄助著・新宿区史跡散歩」「金沢輜重兵会発行・追悼・金澤輜重兵聯隊」「斎藤充功著・謀略戦・ドキュメント陸軍登戸研究所」「明治神宮外苑発行・明治神宮外苑70年誌」「新宿区地域女性史編纂委員会編・新宿 女たちの十字路」「新聞アカハタ」「新宿区町名誌」「地図で見る新宿区の移り変わり」
【写真は中国東北部(旧満州)黒竜江省哈爾濱(ハルビン)市平房区にあった関東軍第731部隊のボイラー室の煙突。彼らは敗戦時に証拠隠滅のため全施設を爆破して日本へ逃げ帰った。いま、「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」は、部隊本部建物、冷凍実験室、特設監獄「ロ号棟」などを遺跡公園として整備し「アウシュビッツ収容所」と「原爆ドーム」に並ぶアジアの戦争遺跡の世界遺産として登録の準備をしている。】
◇常石敬一著・日本医学アカデミズムと731部隊◇500円
◇究明する会編・夫を、父を、同胞をかえせ>◇700円◇
◇究明する会ニュース90/9/25〜99/6/13合冊本◇5000円◇
【写真下は甲武鉄道蒸気車時代の四谷駅付近。後景の市ヶ谷台に陸軍士官学校校舎が見える(甲武鉄道「東京風景」明治44年刊)】

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