臥雲辰致とガラ紡
  


臥雲辰致(1842−1900)

私の祖父
松本の生家で物心付く頃(65年前)から、客間の壁に掛けられていた
何時、誰が書いたかは不詳

○臥雲辰致(姓名)を創造 ( 臥雲姓の由来へ)
辰致は 廃物毀釈 安楽寺が廃寺となり、 還俗 する際、「臥雲辰致」の姓名を創造した。 「臥雲」は「臥雲山孤峰院」(安楽寺の 塔中)の住職であったことから二文字を頂戴し、「辰致」は自ら創造したと考えられる。 如何にも発明家らしい
辰致には4人の男児がいたが、四男の父(紫朗)だけが、臥雲姓を名乗った。
現在、臥雲姓を名乗っているのは私の知る限り、5世帯である。現下の状況から して、今後も、この程度で推移しそうである
農業を中心とする社会の中では、風変わりな人物として身内から 疎外されたようであり、当時の資料は殆ど保存されていない。 第一回内国勧業博覧会 で受賞した際の鳳紋賞碑 が親族の手元になく、十数年前に、岡崎在住の方から返還されたのは、 その辺りの事情を物語る良い例ではないかと思う
私の父も、辰致について、多くを語ろうとしなかったが、どこかで意識があったのか、農機具 (縄なえ機、稲こき機  桑切機 )の設計、製造、販売をして、 発明、改良に努力していた
祖父、辰致(1842年生)と私(1937年生)とでは95年の隔たりがある。私の父、紫朗(1887年生)は 祖父、45歳の時、私は父、50歳の時と何れも晩年の子であるが為であるが、紛れもなく二親等の 祖父と孫の関係である
思えば、今から60年前(1950年頃)、未だ辰致に対する評価が定まらない時期に、父はじめ3人の 伯父たちから情報を得ておくべきだったと悔やまれる。”れば”、”たら”は詮無いことであるが、松本駅前の 実家には伯父たちが良く立ち寄っていた
私は綿紡績会社にお世話になり、人生を過ごすこととなったが、これは全くの偶然である。 しかし、齢72と人生の終りを迎える今日、祖父の人生に思いを至らしめるのは何故か?

○綿紡績機を発明・製造・普及
辰致は綿から糸を作る作業 (糸車) を機械化することを考え、苦心惨憺の末、その夢を実現した。 火吹き竹にヒントを得て?独自で考案した機械で、”引っ張り”と”撚り”とのキーとなる クラッチ 機構は見事なものだと感心する。 第一回内国勧業博覧会への出品が契機なり、岡崎を中心に普及した。
動力源により、 舟紡績 水車紡績とに分かれる。舟紡績は船そのものが工場となるもので、 定かではないが、居職一体となっていた?水車紡績は内陸の小川の流れを利用した水車で、 機械を運転した。
この機械及び糸を含めて、「ガラ紡」あるいは「和紡」と称されている? ガラ紡は、木製の本機がガラガラと音をたてのに由来する?(定かではない)
和紡は、洋式の リング精紡機 に対しての表現ではないかと思われる?

  

辰致の人物像及び発明したガラ紡についての著書、論文、資料並びにガラ紡の 特性を生かした商品開発で、現在でもガラ紡が稼動していることに鑑み、ガラ紡及び辰致に ついての自身の理解を深めると同時、辰致に関心を抱く人々のために幾つかの切り口で整理してみた
ハイパーリンクを多用しており、著作権等の法律上の課題は認識するも十分な知識がなく、学習を 要するが、該当する場合にはご容赦頂きたい

○書籍、論文、資料
「臥雲辰致」(人物叢書、村瀬正章著、1965年)
(50余年前、著者の取材に同行した。 「辰致」の読み方を”たっち”としている。 役場の戸籍を閲覧し、再婚していることをしった。また、初版を10冊以上購入し、 配付した。今手元に1冊あるのみ)
「臥雲辰致」(郷土出版社宮下一男著、1993年) 表紙イメージ
「臥雲辰致とガラ紡機」(アグネス技術センター 北野進著、1994年)
    (「辰致」の読み方を”ときむね”としている)
「安曇野の近代化遺産」(第3章) (近代文芸社 北野進著、2007年)
「修身教育/少年立志遍」(39頁)弘前市立図書館

「ガラ紡精紡機の技術的評価」 (玉川寛治氏論文1987年技術と文明の別冊) (単工程で紡糸ができる、独特のクラッチ機構、撚りは綿の供給側の回転、 繊維長が短くて良い、機械が安い等、特徴付けている)
「 ガラ紡績機の機構とその技術」
(シンポジウム 東海の産業遺跡・遺物(1985年10月27日開催)の内容を報告書にまとめたもの:石田正治氏)
「和紡績(ガラ紡績)の展示のご案内」
(石田正治氏:和紡績と日本の木綿展の資料、1986年、豊橋市で開催)
「臥雲紡・ガラガラ紡・がら紡 和式紡・和紡ー郷土の固有技術と国際化時代への対応ー」 (愛知県産業情報センター発行技術情報1987年8月:三河繊維技術センター 大竹氏)
「ガラ紡の機構とその独創性」
(石田正治氏 たばこと塩の博物館 研究紀要第3号(平成元年(1989年))
「三河ガラ紡の遺産」(石田正治氏)
「日本独創の技術ガラ紡」
(安城市歴史博物館の企画展(平成6年(1994年)4月23日〜6月5日)の展示図録)
「臥雲辰致の綿紡機復元機の設計」
(石田正治氏:安城市歴史博物館の企画展のため、第一回内国博覧会展示品の復元設計)
「日本が誇る産業遺産・三河ガラ紡」 (愛大中産研:全般)

○歴史的意義
辰致の発明したガラ紡は本人の意思に関わりなく次の歴史的役割を果たすこととなった。
産業革命
富国強兵 殖産興業の明治政府の政策による工業化への過程の中で 輸入品( ジェニー紡績機 ウォータフレーム ミュール精紡機 リング精紡機 )と競合しながら ガラ紡はその一翼を担う結果となった。
「綿業における技術移転と形態」 (加藤孝三郎氏:外国製との比較)
「近代日本の技術と技術政策」 第2章:繊維機械技術の発展過程ー織機・紡績機械・ 製糸機の導入・普及改良・創造ー (石井正氏:普及と技術的限界、特許権)
高等学校の歴史教科書の記述
「平成22年度大学センター試験「日本史B」の問題」( 第5問 問3
(富国強兵のため国内品推奨として簡単な紡績機械(ガラ紡)が発明され普及したと 位置づけている)

特許制度
ガラ紡を発明したが、その権利(現代の特許制度は未整備)を享受することはなかったようだ。 辰致の人間性と事業(金儲け)よりも、ガラ紡の技術的な改善に関心が強かったのだろうか? 生活ぶりがどの程度であったかは、想像するしかないが、男児4人の内、3人を養子に出している こと、四男(紫朗:私の父)も義務教育だけで1人で生計を図らなければこと、晩年の辰致の 妻、たけを紫朗の家に同居していたことから、辰致の住屋もなかったのでは?から相当苦しかった と思われる
そんな様子を見た周囲の関係者が特許制度の必要性を感じたのではないかと思われる
「基本法学」3−財産(無体財産権)、1987年、 284 292頁 (中川信弘氏)
パリ条約加盟100周年記念シンポジュウム基調講演(近藤隆彦特許庁長官(1999年) 2.工業化と知的財産政策、 (3)開国後の模倣品の流通
特許制度の沿革


辰致が発明したガラ紡(安城市歴史博物館展示)
(第一回内国勧業博覧会に出品された資料を基に石田正治氏により 復元 された)
2007年9月28日撮影

岡崎市の 名誉市民に叙せられている
第一回内国勧業博覧会でガラ紡に注目、評価した岡崎の資本家(甲村滝三郎) が本機を導入し、その後も運転指導、改良のため、しばしば、岡崎を訪ね、三河の紡績 産業の発展の礎となったことによるもだと思われる


○展示品
産業技術記念館
明治村
日本綿業倶楽部
愛知大学中部地方産業研究所
東京農工大学付属繊維博物館
石川繊維資料館
安曇野市堀金歴史民族資料館 及び 展示品
豊田市近代の産業とくらし発見館
安城市歴史博物館
東海高校
浜松市博物館

○商品開発(糸の特性を生かし製品の開発・製造・販売をされている)
ガラ紡で検索すると16,800件にヒットした。その主なものはガラ紡の糸を素材とする 商品に関するものである。下記はその極一部である
原料となる綿の品質(繊維長、均一性)への要求があまりないない(落綿、古着の再生綿等) こと、機械が低価格であることなど、製造原価が安い。撚りが甘く、節目が多いなどで、風合い 、触感、染色性などが評価され徐々に愛好家が増加しているのでは?
朝光テープ(有) (びわこふきん(微和呼)、和太布)
益久染織研究所 (和紡布)
似肖屋 :似肖布(あやかりふ)
木玉毛織( (オーガンコットン糸)
ミチバタ・ジャパン  (和紡布)
三河サムロック  
NPO 法人 ガラ紡愛好家  
ファナビス 本気布(マジギレ)

○稼動中のガラ紡機(現物は未確認)
木玉毛織( 一宮市
鈴商店(蒲郡市)

現役のガラ紡が何処で何台あるかを知りたいと思っている。心当たりの方の 情報が頂けると幸甚です

 
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