養蚕方荒まし                         

 蚕は、神蚕とも仁蚕とも云て、古より専ら好人の業として貴き御方にも養わしめ給うらく貴き蚕なれば、養う人は、身を清浄にして信を以て養わざれば、年々上作の繭を取収さむる事はならぬとぞ云い伝えり。
予、養蚕に心を依せし事、五年以前なりしが、初めは、米沢、伊達、桑折などの養ひ方を聞きしに、其の方法まちまちにして信ずべき事なかりしが、一昨年、上州島村に遊び、其の後、養蚕の書きものを熟読し、昼夜わするる事なし。勘考し漸く心に入りし事どもありし故、記するものなり。
第一、蚕を養ふは、信心にして、我が子を養ふが如し。
第二、身体を清め、蚕室中も清浄にすべし。
第三、蚕は、神虫とも仁虫とも唱ふる虫なれば、万事穏にして丁寧を尽すべし。
第四、蚕の病は、多く腐敗毒より起こるものなり。然れば蚕室の内は勿論、外廻りとも、くされ気の物なき様に心掛るべし。第一蚕下などは、殊に腐れ気の強きものなれば、速かに取り除くべし。裏取を出精するも此の気を恐るる故なり。
裏取をするには桑の燥かざる内 取をよしとす。
第五、蚕発生して三日目まで、子供の三才まで母の懐にて育て候様大切に致し、獅子休をば、五、六才の子供を育て候様休中の扱は病人を扱ふが如し。休裏を取りたらば、蚕の休模様を篤と見て、三ケ一休めば、是迄与へし桑の三ケ二を与へ、五分通り休めば半分を与ふべし。桑は、少し細かなるを度々与ふがよし。皆休に就けば、桑を一昼夜ばかり与へず。休蚕の上に桑葉かかりてむされ候へば、蚕舎利病其外種々病蚕出るものなり。休み中は、殊に空気の流動を第一とするなり。養ひの元は、空気なりと知るべし。すべて生たる物は、元を受て生れる故、精気とも元気とも云り。よく此道理をわきまえて養ふ事肝要なり。
第六、獅子の休、五、六分通り起き、蚕見ゆれば、上葉を細かに切り、壱籠四、五匁斗り薄く平に与ふべし。是を中葉と云ふ。半日斗り過、九分通り起蚕見ゆれば、上葉を細に切、薄く平に与ふべし。是を桑附と云ふ。此両度の桑は、人の病後によき食物を軽く食せ候様に扱ふものなり。桑附て後は一両度の桑は、細かめなるをよしとす。獅子起ては最早七、八才の子供を育てるが如し。
第七、鷹休の扱ひ起の時も、前と変はる事なし。呉々も休裏を取し後は、追々桑を薄く平に与へ、裏の溜らざる様扱ふべし。桑葉黒く枯れ、蚕下にかびを生ずるは、扱の届ずして腐の気出たるものなり。蚕下の裏を返し見れば青く枯てあるをよしとす。桑の与へ方は、?と?さるに依て相違ありといへとも薄く度々与ふを宜しとす。最早十才以上の子供を育て候様なりし故、少し手荒にても宜し。是までは心を用ひて穏に扱ふべし。
桑附て三日目起裏を取 是より枝桑を与ふ
第八、船の休になれば、壱籠に一、二頭休蚕見ゆる時数を数へ木鉢に百頭宛入れ薄飼は、壱籠千頭宛、厚飼は千三百頭?、養ふなり。匁数を数へて裏取をなすは、拾ひ裏取といふ。此時は、後れたる蚕は、別の木鉢に拾ひ、他の籠に広ぐべし。五、六分通り起蚕見ゆれば、中葉を前の如く与へ、九分通り起 揃ひ桑附て三日め起裏を取るべし。此時も数を数へて、聢と定め度ものなり。休中には必ず蚕減じ候ものなればなり。若此時、手張りを数難き節は、庭休みの裏を取る迄拾ひ、裏取を追々なし、蚕の全き数と後れ蚕を他の籠に広ぐるとに心を用ゆべし。船起後は、養蚕の作不作の界と知るべし。最早十四、五才の子供の如くなれば、心を用いて桑を多く与ふべし。
第九、庭の休みに掛かれば、前の如く、休蚕、一、二頭見ゆる時、薄飼いに厚飼い共一籠より百頭宛拾い取り、其の余りは壱籠に広ぐべし。成る可くは、後れ蚕を拾う様になし度ものなり。五、六分通り起蚕見ゆれば、中葉を与ふ事前々の如し。桑附は、後れ候より早きをよしとす。八、九度の時を最上とす。桑附て三日め起裏を取る。最早、壮年のものと成し故、食を多く与ふべし。起揃ふて四、五日めには、蚕の見へぬ程、桑を与ふものなり。桑掛の度数多き程、宜しけれども、四、五度より多くは、手の回らぬものと知るべし。暑さ強ければ六日め夕方には「ずふ」の見へるものなり。七、八日めよりは、「ずふ」拾ひとて、蚕の身体透き通り、糞の一ツ二ツ残りし物を大鉢に拾ひ取り、「まぶし」に上て壱籠七百頭斗りをほどよき数とするなり。糸繭飼は早上をよしと云ふ事あれども、大いなるあやまりなり。必ず十分に透き、桑を少しも食わざるを上ぐるものなり。盛んに「すふ」の出る時は、桑を掛けては「ずふ」を拾ひ度数の多き程宜し。青葉の中より拾ひ出し候様致さざれば「すふ」急ぎて宜しからず。又夜に入れば種々障る事ある故、蚕室内を涼ふし「すふ」拾ひを致さざるものなり。暑気強く、八十二、三度に成て「すふ」急ぎ頭太く堅「すふ」に成ることあり。此時は「ふご」に入れて清き水を柄杓にて三ツ四ツ澆ひて「まぶし」に上ぐべし。八十度余の暑さにては、春蚕の時候には暑過ぎたるものと知るべし。桑を与ふる時も、日に一、二度桑葉に清水を颯と掛けて与ふるがよし。
第十、「すふ」を「まぶし」に上げて、三、四日に「さなぎ」に化し、六日七日めには、繭を「まぶし」より掻き取るなり。此掻き取る時、玉繭に分け、下繭は下繭と分けて取るべし。左なければ手数のみ掛かりて宜しからず。掻き取りし繭の外廻りなる粗糸をば繭ころがしにて取り除くべし。種を取るには、上等の繭を撰び壱籠に壱斗づつ並べて蚕棚にさし置き、蚕を養う如くなし置くべし。上等の繭と云ふは、太からず、少 さからず。締り能してちぢらも大ならず、小ならず。白は如何にも白く、黄は如何にも黄にして、光沢あるを上等とす。玉繭よりは必ず種を取るべからず。是より取りし種を尤も下等とする也。糸を取るには、繭ふかしにて「さなぎ」を殺し、籠に入れて能くかわかし、かびなどのかさる様なし置くべし。

悪敷蛾をば捨る也
第十一、種を製造する繭を九日十日めに一方を刺す刀にて切り、中の「さなぎ」を出し見れば?色にして堅く光沢あるを上等とす。其の身体中黒き瘡あれば、必ず蛆になるなり。十の門五ツあるを五分、八ツあれば八分の作と云ふなり。八分以上の分方なれば上作とするなり。此分方は桑のよし悪しにて養いには寄らざるものなり。平常の時候なれば、十一、二日めに蛆盛んに出て、十七、八までで蛾出て祁るものなり。此時、早朝繭の上に下に紙或いは尿紙を少々ヅツ重て掛置べし。午前九時頃に紙の上に出たる蛾を二十四、五つかひ、他の紙に上げ、籠にのせて棚にさし置、午後二時頃に至て雄蛾を取り盥に水を入れた日に捨て、雄蛾は下た紙に取付たる侭静に五、六度振て他の人に渡し、其人又前の如く振り、凡八、九人の手に掛て尿をなさしめ、これを「こざ」に落し羽類を去て、目形を掛け、二十三匁あるを一紙の原紙に揚げ、枚数並てヘリ木を置、丁寧に種を産付さするなり。午後二時頃より九時頃迄紙一面に産付るを上等とす。此時、蛾を盥に投して捨つるなり。種紙は元の所に並べ置、翌日に至り紐を付、種紙掛に掛くべし。所々に産付ざる所あれば一、二蛾を以て間指をなすべし。
第十二、種を産付たる紙には、日のあたらざる様用心すべし。又、夜中燈火を付掛置たる下に参べからず。種のつぶるるものなり。
右養蚕の手続大凡相記し候間、一、二等の御方御熟臨ん下され、御一同へ御教諭希い奉り候。此書にもれたる事も多く御座候得ば、猶御尋次第御答申申すべく候。

明治九年五月                                            榊原十兵衛 著


獅子休、鷹休、船休、庭休について 
「1回目眠るのを獅子、2回眠るのを鷹、3回眠るのを船、4回眠るのを庭という読み方のいわれは、天竺のお姫が継母に嫌われてという、金色姫の話です。継母がまず金色姫を獅子句山(ししくざん)に捨てるのですが 獅子がお姫様を乗せ帰ってきてしまう、鷹群山(ようぐんざん)という鷹狩りの山に捨てるのですが、鷹狩りの人に助けられて帰ってきてしまう、海眼山(かいがんざん)という島に流すのですが、漁師に助けられてかえってきてしまう、お姫様を庭にうめるのですが御姫さまの埋まっているところが光って見つかってたすけられてしまう。大王は桑の木のうつぼ舟で流してしまう、たどり着いた場所が茨城県筑波の豊浦と言うところです。・・・・(浦人(うらびと)これを助け、介抱しけるに、幾程もなく、彼姫、空(むな)しくならせ給ひ、其 霊魂化(れいこんけ)して蚕と成けるとかや。此故に、蚕初(はじめ)の居起(ゐおき)を獅子の居起と云、二度めの居起きを鷹の居起、三度めを船の居起、四度めを庭の居起といへるは、彼姫天竺(てんぢく)にて、四度の難に遇(あひ)給ひし事をかづたどりて、かくは名けし事とぞ。)」に因む。
榊原十兵衛
榊原十兵衛は、田宮流槍術の奥伝を極めた旧荘内藩士で、戊辰戦争では大砲隊長として活躍、その後松ヶ岡開墾に従事、群馬、福島など先進地を視察、桑苗を松ヶ岡で栽培、北海道開墾組頭として函館大野の原野を切り開いて桑を植え付けた。松ヶ岡より退いて第67国立銀行設立に関与、温海町に製塩社をつくり、製糸場盛産社の設立、桑苗植栽指導、酒造業、商業、海運事業にも関与など活躍、没後大正5年殖産興業の先覚者として奥羽6県共進会で表彰された。