【文化と宗教について

 

宗教と文化の個別の衝突は無いようである。宗教の衝突が文化の衝突のゆえに起き、また、文化の衝突が宗教の衝突のゆえに起きている。宗教と文化とは分離できない。しかし、より成熟した文化は異なる宗教を包括し、共に生きようとする。

 

しかし、その包括された宗教は文化と衝突することはできない。その途端、排除が始まるであろう。異なる宗教を受容してくれた文化との衝突は排除である。排除なくしては、社会的結合はないからである。仕方がない。

 

イスラム世界の暴力的行為については、宗教の衝突ではない、或いは、文化の衝突ではない、とも言われているが、道徳が文化と宗教とから切り離すことができないならば、その二つの衝突が確かに起きているのだ。

 

宗教は文化を産み、文化は道徳を産む。では宗教はどこから来たのか。神からである。神からの愛、分裂したわたしを、またわれらを一つに結合しようとするアガペー(不変の愛)による。

 

道徳と文化と宗教はそれぞれを説明できるが、三つを切り離しては存在し得ない。神信仰においてこそ三つの機能が本質的一致をもって働く。道徳的自己統一文化的自己創造宗教的自己超越は、それぞれが分離して存在するのではなく、一致して働くことにおいてのみ、存在する。宗教は「同時に道徳的自已統一」であり、また「同時に文化的自己創造」である。宗教こそ、道徳と文化を創る。

 

 

人間の生の偉大性と尊厳性を現すはずの宗教が、それを得たとたん、人間によって最も世俗化され、最も非神聖化される。人間自身の曖昧性がそこにある。

 

夏期休暇を利用して、カトリック教会の礼拝に度々出る。礼拝堂(御堂)にはいると実に静だ。彼らにとって御堂に入ったとたん、そこは神の世界なのだ。それに比較してプロテスタントの教会は何と騒がしいことか。社交の場にさえなっており、日常の挨拶の言葉が飛び交う。わたしたちには御堂の前で、聖水に触れ身を清める、という習慣はない。しかし、その神話的行為が間違った人間性の露出を抑えている。

 

更に、礼拝堂には立派な生け花や装飾があり、まるで講演会場である。御堂は実に清楚だ。また、多宗派との交流もある。プロテスタント教会のいわゆる福音派教会は、カトリック教会との交流を拒否する。カトリック教会の奥の深さ、その開放性はわたしたちにはない。「バチカン公会議」を読んでみても頑丈な城壁にアリが立ち向かうようなものだ。

 

キリスト教信仰によって培われてきた欧米文化にとって、その間に亀裂の生じることはかなりの痛手である。しかし、宗教と政治の分離が正しく行われるにはその分裂もいたし方がない。分離されることによって、政治によって使い勝手よく用いられることから宗教が守られるからでる。個人の趣味程度にしか位置づけられていないわが国にとって、むしろそこに宣教の自由があり、福音によって造られていくその人の文化の期待がある。

 

ただ、福音の価値観が個人の文化として生きることはなかなか難しい。体外は二元論に生きてしまう。教会活動に熱心で、祈ることに熱心な人がその二元論から解放されているわけではない。ぞっくり染まっていて、何の矛盾もなく生活している。信仰の二元論、これこそ信徒たちの宗教と文化の大きな分裂である。

 

霊的共同体には三つの機能があって、それは曖昧ならざる生の超越的結合、即ち、宗教と文化と道徳の統一とである。宗教が文化を生み、文化が道徳を生む。宗教は神から来る。宗教なくしてわたしたちの文化はないし、文化なくしては道徳もない。

霊的共同体はこの三つの機能が分裂してではなく、統一してこれに参与している。実際にはこの三つの機能は諸条件のもとでそれぞれが全く分裂して曖昧に働いている。この責任はキリスト教にある。宗教と文化と道徳との統一のためには、それぞれが再創造されなければならない。

再創造のための霊的現臨、つまり神との出会いをなしうるのはキリスト教のみである。

プロテスタント・キリスト教はまさに、教会の多神教的傾向からの脱出をしようとする働きであった。そのためには多くの芸術からの訣別をしなければならなかった。どうしても、信仰生活の中に入ってくることを避けることは出来ないからである。

Tillichが言うように、礼拝生活の多神教的傾向なくして「初代教会の宣教の働きは不可能」であったのであろう。しかし、信仰からはなれて、今一度古典芸術を評価すべきであろう。メッセージの妥協の危険は今日もプロテスタント・キリスト教にある。

聖書解釈の仕方において、適応の極のために真実性の極を放棄するという危険」、それは起きる。他宗教との関係とか伝統文化の解釈の仕方ではない。福音そのものを水増しして語ることが起きる。しかし、御言葉自身がそれを拒否する。そのことを経験した説教者は幸いである。

この後にTillichは、「その相違は相対的なものである」と述べ、そこに至った教会の過ちを批判している。神から来てわたしたちに与えられる正しき霊性は、そこに聖霊が健全に存在する限り、視覚と聴覚による霊性を除外することに反対する。

わたしたちの精神は視覚も聴覚も、他のすべての次元を包括している。生おいて必要であるように信仰においても可視的なものを包括している。精神の根底は自意識であり、そこから自己が始まる。その自己が成立するためには、聴覚も視覚もすべての次元において発動されていく。

わたしたちの精神は語られる言葉を聞くことのみによっては表現されえない。見ること、可視的側面が必要となる。人間の顔は見よう、聞こうという構造につくられている。或いは、食べよう、嗅ごうとしている。その身体的構造は人格的精神を表現している。「身体性(からだになること)は神の道の終点である」(エッティンガー)という言葉をTillichは引用している。

 

道徳と文化と宗教とはそれぞれに意味を込めてその存在と効果を語ることが出来る。しかし、それらの統一体としては破壊されていて語ることが出来ない。神から宗教が始まり、宗教が文化を生み、文化が道徳を生むという本来的な図式はとうの昔に破壊されていて、その関連すらも多くの人々から忘れ去られ、三つのものはそれぞれ勝手に成長・発展しているからである。

或いは、それぞれに変形した悪意をこめられたものが出てきて、より三者の分離が進んでしまった。だから、曖昧な変形したものが残されてしまって、わたしたちは生の過程で曖昧にそれに出会うしかない。しかし、神の霊が来ることによってそれらの再結合の可能性はある。聖霊の働きによって神の文化が再創造され、神の道徳が再創造される。

しかし、聖霊を受ける者によってこそ神の世界(超世界)は起きるのであって、何も感じない者、否定する者によっては、たとえそれがキリスト者であっても見ることは出来ない。神の世界に入るならば限定されていた自己を超えることが出来る。そこでこそ、わたしたちは他者にとっても豊かな文化、道徳を論じることが出来るのである。

神の霊に生きる者、自己超越性した者は超文化、超道徳を見ることが出来る。