明け烏
生っ白い肌は既に浮腫み始め、生前の面影を見つけ出すのは困難だった。着物の裾がめくりあがり、白い足が打ち寄せる波に洗われて、一層青白く浮腫んで見えた。
また、死んじまったのか。
明けの空にぽかりと浮かぶ白月のような虚が、また空いた。
見知らぬ男と手を括り合って打ち上げられた、登和の死体には刀傷があった。心中などではない。
先を越された。
又市は白い空を見上げた。
「可哀想なことをしたよゥ」
横に立っているおぎんが呟いた。
「おぎん、こっからは一分の隙もあっちゃならねェ」
「わかってるよ」
そう言って、おぎんは女の裾を直した。
おぎんは又市が遅れたことを詰らなかった。治平の遺恨のことは知っている。何を犠牲にしても晴らしたい恨みつらみを持つ辛さも知っている。だから何も言わなかった。
「悪ィことをしたなァ。又の字よォ」
治平が珍しく神妙な声を出した。
「死に損ないの爺ィがそんな辛気臭ェこと抜かすんじゃねェよ。うまく行くもんも行かなくならァ」
一言、何故死なせたと詰られた方がまだマシだ。
又市は治平を振り返ると、
「治平、考え物の先生に頼んで手伝って頂け。白蔵主のこたァ、先生が詳しい」
*
襖は訪れた時同様、開け放したままだった。そこから藍に染まり始めた空が見えた。
又市は身支度を整えると、宵闇の残る部屋を振り返った。
蚊帳の中に酒宴の跡と、その向こうに酔い潰れた山岡軍八郎が見える。更に部屋の隅には、酒宴の頭の方で潰れてしまった百介が身を丸めていた。
今回は百介の頼みで、百介の兄、軍八郎の関わる怪異を片付けた。先に引き受けた甲斐の件は緊急を要するが、こちらは治平と鳥蔵の十二年越しの仇が関わっている。この機を逃せばもう後がない。
これも縁だと、野鉄砲の怪をでっちあげたのだった。
又市は神仏などは毛ほどにも信じていないが、縁と言うものに関しては身に沁みているのである。
「又市殿」
草鞋を履いたところで呼び止められた。
振り返れば、部屋の暗がりにぼんやりと人の立ち姿が見える。百介だ。
「起こしてしまいやしたか。すいやせん。挨拶もしねェで失礼を承知で御座いやすが、奴はお暇させて頂きやす」
「いえ、それはいいのです」
そう言うと、百介は縁まで出てきた。
「治平さんと鳥蔵さんは」
「野鉄砲が人目に触れちゃァ拙い」
又市の物言いに百介はくすりと笑った。
「それにしても、又市殿。急ぎの御用がおありだったのでしょう?それなのに」
「先生、気にしねェでくだせェ。感謝しているのはこちらの方でさァ。治平や鳥蔵さんの仇がこんな所にいるなんてこたァ、先生に知らせて頂かなけりゃ、分からなかった。突き止める前にこちらがくたばっちまいまさァ」
「それは」
百介は齢八十だという鳥蔵の顔を思い出して口ごもった。
又市はそんな様子を見て微笑むと、「それでは」と縁から庭に下りた。
「あ、表までお送りします」
百介は縁から降りると、仕舞い忘れたものなのか、沓脱ぎ石の上に乗っていた下駄を履いて先に立った。
「知らぬ間に帰ったと知ったら兄上は―――ぅあっ」
「オット」
又市は何かに躓いたらしい百介の腕を咄嗟に掴んだ。
「まだ酒が残っていやすか」
「あ、いや、すいません。私の下駄ではないですし、そもそも下駄に履き慣れていないもので」
照れたように言う百介の足元を見ると、確かに鼻緒が少し緩いようだった。
「お気を付け下せェ。奴如きの見送りで怪我をなされちゃァ、先生の兄上にも面目が立ちませんや」
又市の言葉に、「すいません」と再び言って、兄の名前が出たせいか伐の悪そうな顔をした。明け間際の薄闇の中でも、百介の様子は手に取るようにわかる。
「私は正直な所、又市殿が兄上にお会いになるとは思ってもいませんでした。何も説明してはもらえないのだと」
木戸の前に辿り着いた時、百介は言った。
「そんなことを思っていなすったか。この小股潜り、確かに口先三寸、信用ならねェことで御座いやしょう。けれど、先生相手にそんな不義理なこたァしやせんよ。それに、もしも後々本当のことが山岡殿に知れたら、御兄弟の間の遺恨になりやしょう」
「いえいえ、私は又市殿のことを信用していないわけではないのです。むしろその逆で」
信用しているのだと言われると、それはそれで据わりの悪いことだと小股潜りは思う。
「ただ、兄上がどうするのかと、私は冷や冷や致しました」
百介はからりと笑った。
「先生と山岡殿は似ていらっしゃる。一緒に育っていなくとも、血は争えないもんで御座いやすなァ」
「似て、いるでしょうか」
僅かに苦笑する気配がした。
「兄上は私から見れば昼の陽のような方で、どちらつかずの黄昏のような私にとっては憧れなのです」
そう言った言葉の裏に、嫉みがひっそりと潜んでいるのを又市は聞き取った。
けれどそれは、昏く凝るものではなく、いずれは溶けて行くものに思えた。
「先生は」
言いかけたその頭上でばさばさと大きな羽音がした。
黒い影が横切り、松の梢に止まった。
呵ァ
「烏ですか」
―――何処かで誰かが亡くなるのでしょうか。
薄闇に、百介の言葉とも思えぬ不吉な声が低く響き、又市をぞっとさせた。
「明け烏で御座ェやす。もちっと色気のあることを言いなせェ」
心内を見せぬようそう揶揄すれば、いつものように百介は含羞むように頭を掻いた。
*
「目聡いねェ。もう来やがったヨ。啄ばまれる前に、何とかしてやろうじゃないのサ。又さんよゥ」
おぎんは上空を舞う黒い鳥に、眉根を寄せた。
「あぁ、そうだな。治平、行く前に役人に知らせてやんな」
オゥという言葉一つで、治平は姿を消した。
それと同じくおぎんも姿を消す。
残るのは又市と、砂浜に打ち上げられた骸が二つだけ。
「まだ、啼くなよ。烏公」
人死には十分。
夜明けにはまだ早い。
又市は鈴を振った。鈴の音の余韻が消える頃には、又市の姿も消えていた。
了